無意味なオタク論


※読む前に※

この文章は、僕が現代社会の授業においての課題で作成した、一見まともなことが語ってありそうで無茶苦茶なことを語っている論文です。

コレを真に受けると、色々と面倒な事態になるかもしれないので、興味のある方は他の方のもっとためになる文章を読みましょう♪

また、長文なので、読んでいるうちに眠ってしまっても一切責任は取れません♪

不明な語句は、大体本に依存している言葉なので、そちらを参照して下さい♪

この文章についての文句は、なるべくメールでお願いいたします。掲示板だと長文が字数制限の為に、書き辛いので。。


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・はじめに

最初に、僕が「オタク」というものをテーマにして、論文を書くことにした理由を述べてみようと思う。 何よりも大きな理由は、僕自身が「オタクであること」を過剰に意識しているからである。 僕は「オタクのことは、オタクにしか語れない」とまでは行かないが、それに近い考えを持っている。 「オタク」が「オタク」の外側から「オタク」を観察しようとした時に、どのように見えるのか。 これを目標にしてみたいと思うが、かなり話が無茶苦茶になってしまった。 読みづらい部分も多々あるが、ご辛抱いただきたいと願っている。

そもそも「オタク」の定義そのものが曖昧であり、これは長い間議論されてきたように思う。 ここで、オタクについて明確に定義を施すことは、この論文の便宜上のことであり、 自分に都合の良い私小説的な論文を作り出してしまうのではあるが、 この文章においての論点を明確にするために必要である。

以上より、ここでの「オタク」とは、 「漫画やアニメーションに深く心酔している人。美少女モノのゲームやアニメーションを非常に好む人。 テレビゲーム・パソコンに異常なほどに没頭している人など」を指すことにする。 また、ある学術的なモノや、科学の事に関して異常なほど詳しい人間を「オタク」と呼ぶことがあるが、 これは別の話であり、僕個人としては、これは尊称としての「オタク」としたいと思う。

東浩紀氏の著作「動物化するポストモダン」において、東氏はオタク系文化の担い手を、 大雑把に3つの世代に分けている。(以下漢数字を算用数字に変えて引用)

 その3つというのは、 60年代前後生まれを中心とし、「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」を10代で見た第1世代、 70年前後生まれを中心都市、先行世代が作り上げた爛熟し細分化されたオタク系文化を10代で享受した第2世代、 80年前後生まれを中心とし、「エヴァンゲリオン」ブームのときに中高生だった第3世代、とでも分けられるもので、 この3つのグループの趣味志向はそれぞれ微妙に異なっている。

東氏がこの書籍を出版したのは2001年である。 2004年の現在、僕はここで、もう1つ世代を付け加えても良いと思う。 それは、この2000年代の真只中で、中高生を過ごし、成長しつつあるオタクである。 僕はこの世代を「第4世代」と名付けたいと思う。 彼らは、第3世代で確立した「萌え」を享受することの出来る世代であり、この関係は第1世代と第2世代に似ている。 以後の文章で出てくる「第1世代」「第2世代」「第3世代」「第4世代」は、 全てここの定義に基づけて書いたので、混乱があった場合は参照していただきたい。 また、以後も「動物化するポストモダン」は幾度も参照するので、そのことも頭に留めておいていただきたく思う。

・萌えとは?

「萌え」という言葉がある。オタクと少なからず関わっていたり、 オタクであったりする人にとっては、日常的に耳にする、あるいは口にする言葉だろう。 インターネットにある辞典、「goo新語辞典」(*1)においては、次のように説明されている。

ある人物やものに対して,深い思い込みを抱くようす。 その対象は実在するものだけでなく,アニメーションのキャラクターなど空想上のものにもおよぶ。
〔アニメ愛好家の一部が,NHK のアニメーション「恐竜惑星」のヒロイン「鷺沢萌」に対して抱く, ロリータ-コンプレックスの感情に始まるといわれるが,その語源にも諸説ある〕

この「萌え」の感覚は、無論人それぞれによってことなる。 「思い込みを抱く」というよりは、首っ丈になる、と言った言葉の方が近い気がする。 思考よりは感情に近い動きと言えよう。この感情は、恋愛感情や、欲情の感情とは違う。 しかし、そこに重なる部分も無いとは言えない。非常に曖昧な感情と言える。 曖昧で定義が難しいのだが、オタクたちは、躍起になって、この感情の文章化を試みる。 「萌えとは」などと打ち込んで、Google等の検索エンジンで調べてみると良い。 参考となる文章は無数に広がっている。

結局、「萌え」とは何なのだろうか。僕の中での結論はまだ出ていない。 ただ、この感情は、二次元のキャラクターに向けられやすく、 「好き」と「可愛い」の折衷的な意味合いではなかろうかと思う。

この「萌え」というものは、当然一般ではそこまでの広がりは見せていない。 雑誌やスポーツ新聞を注意深く見ていれば、まれにそのような記事も見つかるかもしれないが。 オタクを嫌っていたりする人の前で、うっかり「萌え」などと発言することは、確実に嫌悪の対象となる。

「うわー、こいつ、二次元なんかに興味持っちゃってるよ……」

つまり、一般人の中で、浸透していないわけでは無いのだ。 使えば変な目で見られることから、「萌え」というのは、オタクの代名詞とも言える。

では、オタクでない人は、どうしてオタクを毛嫌いしやすいのだろうか?

・何故人はオタクを嫌うのか

「オタク」ということに対して、ある人は過剰に同化し、ある人は過剰に敵対心を表す。 過剰同化にも問題があると思うが、ここでは過剰な敵対について論考する。

オタクとは簡単に言い換えると、「社会性のないマニア」である(広辞苑より)。

では、オタクと揶揄される人々に社会性は無いのであろうか?

全員が全員とは言えないが、答えはNO、辞書的意味から考えると矛盾するような表現だが、 社会性のあるオタクは多く存在するのは間違いないハズである。 そうでないのなら、オタク産業そのものが成り立たなくなってしまうからである。

何にせよ、ある程度の年齢に達していながら、アニメに心酔している(ように見える)人間は卑下の対象となる。 その手のものは排斥の対象となるのだ。

ここまでは、多少なりとも自分がオタクであるということに自覚的であれば、判るはずである。

では、なぜオタク的趣味は排斥の対象とされるのだろうか?  基本的にオタク的趣味というと、2次元的なものが多く見られる。 虚構に心酔する、という点であれば、ロリータビデオであれ大差はないのであるが。

語弊を恐れず言うならば、一般人は、オタク的趣味に価値は全くないと考えている。 無論、商業的な大きな意味は持っている。 しかし、ここでいう価値とは、人が人として生きる、という点であると考える。

こう考える理由については「人々の意識の底にある、2次元における非生産性」、と僕は考える。 2次元の世界は承知の通り、3次元の世界ではない。

無論、幾何学において、2次元という概念は不可欠であり、社会の発展に大きな貢献を与えた。 そして、アニメやゲームに関しても、我々がお金を支払う以上は、経済に影響を与える。 故に、実効的には非生産性など存在しないはずである。

しかし、人は二次元に必死で入れ込んでいる人間に、侮蔑ないし軽蔑の視線を送る。

「こんなことをしていても、意味無いじゃん。バカじゃないの?」

そのような思考である。 つまり、二次元という虚構に心酔しようとも、得られるものが何も無い、と思っているのである。 無論、そんなことを面と向かって言われて、冷静でいられるオタクも多くはないだろう。 無意味でも構わない、と開き直る人間も現れると思う。

また、「キモい」などとも言われがちである。 言わば、現実世界に目を向けることが出来ずに、逃避行動を取っていると思われるのである。

では、逃避行動は何故社会的に許されないのだろうか?

僕はこの点について、非常に懐疑的である。 目的が達せられなかった時に、逃避行動などが発生しやすくなる。 無論、昇華など、社会的に認められる行為も多々見受けられる。

逃避行動から何が生まれるのかを考えると、逃避行動を選ぶと言うことは、楽な道を選ぶということになる。 もちろん逃避行動の先にあるもの全てが、元の道より楽なわけではない。 しかし、逃避行動は、更にそこで挫折を感じた時にも発生し、怠惰な方向へどんどんと流れて行く。 一般的に楽なほうへ行く人間は堕落した人間とみなされる。 苦行を乗り越えた人間にこそ価値があると思われるからである。

つまり、楽な道ばかりを選ぶ人間には価値が無い、だから逃避行動を起こすな、ということにある。

また、人間が堕落しているかどうかは、客観的問題とも言える。 これは、本人が自覚的に堕落していると感じている場合でも、 周りから見れば頑張っていると思われることもあり、また、その逆も多くあるからである。

では、オタクとは堕落した人間なのだろうか?

いや、問題提起そのものに訂正を施そう。どんな趣味を持つ人間であっても、堕落した人間は存在するのである。 つまり、オタクにおいて、堕落した人間の割合が多いのか、ということが問題なのである。

やはりこのことについても、堕落した人間の割合が多いとは言い切れないのではないだろうか。 そもそも何を持ってして「堕落」とするのか。品行の悪い人間を、とするのであれば、 一般に社会に対する保守性の高いというオタクの特徴との間に、矛盾が生じる。 つまり、今までの社会性についての話などは、後付けの理由に過ぎないということになる。 「オタク」というイメージそのもののレベルにおいて、問題があるのだ。

やはり、その最たる原因は宮崎事件だろう。 宮崎事件とは、宮崎勤が幼女4人を凄惨極まりない方法で殺したという事件だ。 これは「オタク」という言葉を、最悪の形で世に広める格好となった事件のようだ。 ここで「ようだ」などと言った曖昧な言葉を使った理由は、僕自身が、かつてそのような事件があり、 また「オタク」ということについて社会的に広まった、などという事実を知らなかったのだ。 僕の単純な勉強不足であるが、これから先においては、 この事件のことを全く知らない世代(=第4世代)が台頭してくるのではないだろうか。 宮崎事件を契機に、「オタク」というものが、メディアから様々な負のイメージを伴い発信された。 ここで最早、究極的に言ってしまえば「オタク=悪」という図式が社会に埋め込まれてしまったのである。 そしてその社会規範が作られた後で、その規範の中で成長してくる世代(=第4世代)の意識にも、 「オタク」というものに対して、何らかの特別な感覚を持っていると思われる。 このオタクに対する過剰な社会的意識が、ある程度以下の世代において、 オタクと過剰に同化することや、オタクに対して過剰な敵対心を生み出す原因と考える。

このような実情は、ジェンダーに近いものがあると考える。 無論、ジェンダーの方が遥かに歴史は長く、根深い問題ではあるが、 このオタクに対する国内での感覚も、ジェンダーと近い感覚で、存在しているのではないかと思う。

・ガンダムにおける第3世代化

極めてごく一部の流れではあるが、確実にガンダムは、第1、第2世代から離れ、 第3世代の特徴である「キャラ萌え」等を有するようになってきている。 その転換点が、ゲームソフトの「SDガンダム G-ジェネレーション」シリーズ(以下Gジェネ)にあると考える。 Gジェネは、バンダイの製作したゲームで、 三国志などに代表されるシミュレーションゲームのひとつである。 これは、これまでにアニメや小説などで登場した、歴代のガンダムの多くを主軸として、 「機動戦士ガンダム」「機動戦士Zガンダム」「逆襲のシャア」「機動戦士Vガンダム」などと言った、 年代を隔てた同じ架空の歴史に所属する機体同士を戦わせるゲームである。 「機動新世紀ガンダムW」と言った、別の歴史でなぞられた機体も登場する。

また、ゲーム中には、「MS図鑑」と呼ばれる、メカニックの細密なデータが載せられており、 その限りで偽物の歴史(偽史)との整合性がある。 つまり、その機体の背後には架空の歴史がうごめいているのだ。

では、第3世代化の根拠はどこにあるのだろうか?

ここで問題となるのはこのゲームの最大の特徴である、 「別の作品同士のメカニックが戦闘を行うことが出来る」ということである。 つまり、100年の歴史を隔てた機体同士が戦闘を行うことが出来るのだ。 これは、この架空の史実に反する出来事である。 また、Gジェネシリーズの1つである「SDガンダム G-ジェネレーション NEO」に関しては、 史実のストーリーそのものは破棄し、その各作品におけるストーリーの断片を組み合わせ、 また新たにストーリーを作り出した。まさに東氏の言う「データベース消費」であり、 シミュラークルを企業が作り出すという例の一つである。

また、2002~2003年にアニメで放映された「機動戦士ガンダムSEED」や、 95~96年にかけて放映された「機動新世紀ガンダムW」は、女性ファンも多く獲得し、 これらの作品の、男性同士の同性愛的な性向を持つ同人誌(いわゆるやおい)も拡大を見せた。

これらの動きは、明らかに第1世代や第2世代の持つ趣向の、 機体における架空の歴史の整合性や、偽史の充実には向かっていない。 第3世代に見られる、いわゆる「エヴァンゲリオン」後の流れに重なる点が多く見られる。

ただし、完全に第3世代化しているわけではないように思う。 「SEED」が、メカニック面でのディティールを疎かにしている訳ではないし、 「ガンダム」の歴史とは初めから違う時間軸で物語を展開させている以上、 「逆襲のシャア」などとの整合性を図る必要は無い。 近年のガンダムは、オタクという面で考えれば、第1・2世代と第3世代の要素を、 折衷的に掛け合わせている優秀な例を示していると言えるだろう。

つまり、ガンダムにおける第3世代化とは、 かつて、第1世代のものであり、歴史の精査に向かっていた関心が、 キャラ萌え等の第3世代の特徴を有するようになり、 確実に第3世代向けの作品に変容して行った、ということである。

もちろんコレは、第4世代の特徴とも言える。 特に、「SEED」は、2000年代の中高生にも向けられている作品であり、 世代的に見れば、全てのオタクに向けられているとも言える。 ただ、「SEED」は、作品自体の評価としてはお世辞にも高いとはいえない。 インターネット上での、アニメ批評のサイトなどでは、酷評が多く載せられている。 しかし、純粋な視聴者として楽しむ分には、全く問題ないと思う。

・動物化するポストモダン

どうもちぐはぐした印象を受けるのは気のせいであろうか?

「萌え要素」の定義について。彼は萌え要素をあまりにも幅広く捉えているように思う。 もはや、オタクたちが喜ぶもの全てのモノを、一括りに萌え要素と名付けてしまっているように思うのだ。 恐らく、そのような言葉を選ばなければ、東氏がノベルゲーム「Kanon」や「Air」などについて言及したときに、 これほどまでの反感は買わなかったはずである。 「不治の病」「前世からの宿命」「友だちの作れない孤独な女の子」などと言ったのは、 確かに要素ではあるが、決して「萌え要素」という名を冠するべきではない。

大変にあつかましく、恐縮なことではあるが、補足として言うのならば、 東氏の言う「萌え要素」とは、「萌え」の要素(例:ネコ耳、メイド服など)、 「オタクの喜ぶ物語的設定」の要素(例:前世からの宿命)、 「類型化されているストーリー展開」の要素などといった、 実質的には細分化可能である要素を一括して言った言葉と思われる。 つまりは、東氏の言った、ポストモダンにおける「データベース型」、 つまり、読み込み次第でいくらでも形を変える事の出来る二層構造は、 見方を変えれば、その深層におけるデータベースそのものが無数に存在する、 とも言えるのではないだろうか。

やはり東氏には、オタクたちの実情を分かっていないように思う。 彼の文章の中で引用されている言葉をさらに引用するならば、 彼にも「オタク遺伝子」が欠落しているようにも思うのだ。 何も全てのノベルゲームのプレイヤーが、そのノベルゲームを薬物の如く消費しているわけでは無いのだ。 「鬱だからKanonをやろう」「癒されたいからKanon」をやろう、という発想は、 まさに手軽に欲望をフォローしよう、と言うファーストフードの感覚に似ている。 だが、その一方で「心身の体調さえも完璧にし、時間的余裕のあるときにしかやらない」 という思想を持っている人間もここにいるのである。 無論、これはただの例外の範疇とすることも可能ではあるが、東氏の発言はあまりにも安易と言えよう。

また、彼の主張とする「動物化」ということも、既に各所でも言われていることなのだが、 あまりにも一面的ではなかろうか。 人間は、どこまで行こうが、結局は人間なのではないだろうか。 仮に、「動物」のように「欲求」のみで全てが解決するような状況になるとしても、 それは人間が別の行動様式を持つようになるというだけで、 「データベース的動物」などと、名付けられるべきではないのだ。

僕たちは人間である。ある文章に疑問を抱き、怒りを覚え、考え、批判し、反論する程度には。

・「データベース消費」を考える

ここで、東氏の語っていることの1つである「データベース消費」というものに対する検討に、 参考となる作品がある。「シスタープリンセス」(以下シスプリ)である。 さまざまなメディアミックスがなされたこの作品は、99年に、 ある雑誌で「ある日突然、あなたに12人もの妹ができたらどうしますか?」という文句で(連載開始当初は9人)、 読者参加企画を出発点にして始まった企画である。 瞬く間に人気を博し、アニメーション化、ゲーム化を果たした人気作品である(2003年に連載終了)。 近年における「妹ブーム」の立役者とも言われているが、真偽の程は定かではない。

さて、この作品においては、兄と妹たちは同居をしていない。 何らかの理由で一緒に住めないのである。逢えるのは2ヵ月に1度の「お兄ちゃんの日」だけ。 そして妹たちはそれぞれ全く違う性格ではあるが、共通項として、 全員とも兄のことをとても慕っている、という設定である。

各妹には、年齢やスリーサイズ、血液型などの公式設定が存在しない。 設定してしまうと、ある年齢の男性にとっては「姉」ということにも成りかねないからである。 こうした最小限であるが、同時に「必要最大限」の設定の下で、2人の人物を作画、作文としてクレジットし、 妹たちからの視点で、基本的に妹1人の語りのみで、妹の想いがつらつらと描かれているのだ。 各妹には、それぞれに「萌え要素」が存在する。ここに12人もの妹を必要とした理由があるのだ。 1人のキャラで、万人のオタクの心をつかむデザイン、設定を作るのは不可能である。 萌え要素は、過剰に詰め込みすぎてしまってはならないのだ。 しかし、12人の妹の存在を「設定」することによって、多くのファンの心をつかむことが出来た。 誰か1人に「萌える」ことが出来れば、そのことによって、作品そのものに萌え、消費することも可能であるからだ。 無論、「12人もの妹がいる」などという、現実ではまず不可能である設定に「萌え」、 作品のファンになることもありうる。

そして、シスプリには、数多くの二次創作が作られた。 二次創作とは、その作品のファンが、その作品の世界観を基にして、小説、イラスト、漫画などを創作することである。 コミックマーケットなどの同人誌即売会でやりとりされたり、インターネット上で公開されたりなどしている。 著作権的な問題が言われることが多々あるが、公式において使われている絵を直接転載するなどの行為をしない限りは、 特に会社側からも注意を受けることはない。 その規模は既に莫大なものとなっているし、それこそが人気のバロメータであると捉えることも可能であるからである。

では、ここまで多く二次創作が広まった原因は何なのだろうか。

さきほど、僕は妹たちの設定について、最小限であり、かつ必要最大限の設定、と矛盾したことを言った。 つまり、最小限の設定こそが、二次創作を行う上では、最大限の設定となるのだ。 原作に依る設定が細密になり、ストーリーが精巧に、そして束縛された流れになっていては、 二次創作は非常に作りにくくなる。 そのような作品において、二次創作を作る場合には、 ストーリーを破棄する、という特定のファンには耐え難い行動を共にしなくてはならない。 「エヴァンゲリオン」では、そのストーリーの破棄を、アニメの最終話で自らが実演して見せた「別の世界の可能性」。 これを提示したことが、二次創作を多く作り出す風通しのいい状況を生み出したのだろう。

話を戻そう。シスプリにおいて、妹の敬愛の対象である兄の公式設定は全く無いと言って良い。 例外としてはアニメ版の兄がそれに挙げられ、名前がつけられ、高校入試に失敗し、 謎の男たちにとある島に拉致された先に妹たちがいた、などという設定になっているが、 原作においては、名前さえ決められていない。ただ、「妹に好かれている」という設定である。 これは、読者(消費者)たち自身が「兄」や「姉」となれ、と言われていることに他ならない。 この空虚な設定は、当然2次創作にも影響を及ぼす。公式設定に無いのである。 よって、兄は、それを描く人(作品)によって社会人であったり、学生であったりする。 また、格闘漫画のように強大な戦闘力を持たせたり、原作と同様に空虚な設定にしたりすることもある。

つまり、創作という過程において、非常に自由度が高いのである。 原作における設定を無力化させる、という苦痛を伴わずにできる二次創作は多くの人間に広まった。 中でも二次創作の小説(ショートストーリー、サイドストーリーなどと呼ばれ、略称として「SS」とも言われる)は、 インターネット上で多く広まり、漫画は、同人誌即売会で広くやり取りされている。

さて、この二次創作。東氏によれば「主に性的に読み替えられた」ものらしい。 これは大きな誤解を呼びかねないので、明白に記述したい。 同人誌の事情については、勉強不足の為、あまり知らないのだが、 インターネット上でよく出回っている小説等に関しては余りにも外れているように思う。 大半が一般向け、例えば、ラブコメであったり、何気ない日常を描いた作品であったり、 あるいは少年漫画のようなファンタジー物であったりと、その絶対数は、いわゆる成人向けの作品よりも遥かに多い。

再び東氏を参照しよう。彼は、近年のオタクの消費行動について、 「単純にオタク系文化全体のデータベースのみを欲望し、それを消費している」とし、 それを「データベース消費」と名づけた。

ここから先は、あまりまとまっておらず、少々読みにくいが、ご辛抱いただきたい。

おそらく、これは全くの憶測ではあるが、東氏の意識には「シスプリ」や「デ・ジ・キャラット」のように、 背景の物語を何も設定していない作品に対する反発のようなものがあったのではないだろうか。 データベースに還元できるのは、ある程度までに仕組みの分かりやすいものだけである。 データの複雑な組み合わせにより、作られたものをデータベースに還元するのは、 非常にわずらわしい手間や多くの時間を必要とする。 その複雑なデータの組み合わせを、1つのデータとみなして、データベースに還元しようとしても、 それは巨大すぎて、不可能なのだ。

かつて、物語といえば、主人公に感情移入し、興奮し、そして感動するものであった。 しかし、「シスプリ」や「デ・ジ・キャラット」は違う。 デ・ジ・キャラットは、初めから感情移入するべき主人公などは存在しない。 「でじこ」たちを客観的に眺め、萌えることに重点が置かれている。 シスプリは、あえて何も設定していない「兄」というフィルターを通して、 「妹」を見つめ、それに萌える、というものであった。 おそらく、東氏には、この事態そのものが理解できなかったのではないだろうか。 年齢的にオタク第2世代に属する彼は、「萌え」そのものを理解することが出来ていないように思うのだ。

・まとめ

結局、拙い文章のつながりとなってしまった。 小テーマから、日本社会に関して一撃を、とでも思っていたが、 とんでもない傲慢だと思い知らされることとなってしまった。

本文中では、東氏の著作について、無茶苦茶とも言える批評を投げつけているが、「動物化するポストモダン」は、 日本社会を観る、という点に於いて「オタク」という観点から分析してくれた数少ない良作であることは間違いない。 オタク系文化のある側面をつき、そして見事に分析してあると僕は思う。

文中では、「動物化するポストモダン」内で出てきた多くの語があり、分かりにくい点があるかもしれない。 時間の関係で、補足が不可能であるので、是非この本を読んでもらいたいと思う。

・感想

曲がりなりにも、オタクについて、色々と考えることが出来てよかったと思う。 時間をもっと有効に活用していれば、さらに有意義な論文が書けたかもしれない。 このテーマは、自分の趣味・趣向に、深く関わっているので、 今後も、常日頃から色々と考えてみたいと思う。

最後に、このような読みにくい文章を最後まで読んでいただいて、絶大な感謝を送ります。

・参考文献

  • 東浩紀「動物化するポストモダン」
  • 大塚英志+ササキバラ・ゴウ「教養としての<まんが・アニメ>」
  • 岡田斗司夫「オタク学入門」

・参考URL(無断リンク)


2004年3月ごろ執筆
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