100番目の猿


「100番目の猿」という話をご存知でしょうか?
こんな話です。

 これは第100番めの猿の物語である。これは科学的実験の話である。
 幸島に日本猿の群れが居た。
 1952年、科学者は猿に砂のついたさつまいもを与えた。猿はさつまいもの味は好きだが、砂は嫌だった。
 イモという生後18ヶ月の雌猿は、近くの川で芋を洗うことで、その問題を解決できることに気がついた。彼女はこの秘けつを母親に教えた。彼女の友達もこの新しい方法を学び、その親に教えた。
 この文化革新は、科学者の目の前で、いろいろな猿の間にしだいに伝わっていった。1952年から1958年の間に、若い猿はすべて、さつまいもをおいしく食べる為に砂を洗い落とすことを学んだ。子どもの真似をした大人だけが、この社会的進歩を学んだ。他の大人たちは、砂のついたさつまいもを食べ続けた。
 1958年秋に、驚くべきことが起こった。正確な数は不明だが、ある朝太陽が昇った時、幸島には芋を洗うことを学んだ猿が99匹いたとしよう。さらにその朝遅く、第100番目の猿が芋を洗うことを学んだとしよう。
 

その時大きな変化が起きた!

 

その日の夕方までに、その群れのほとんどの猿が、食べる前にさつまいもを洗っていました。

 一体この話は何を示しているのでしょう?
 物事や文化は、この「99番目」までは、少しずつ、着実な拡大の形態を取ります。
 そして「100番目」(臨界点)に達したときに、爆発的に拡大をする、そういうことを示しています。
 ここに世界平和、核廃絶へのヒントが隠されているのではないでしょうか?

 今村歩さんという方を、ご存知ですか?知っている方も多いと思います。
 彼女は宮崎の高校3年生で、自衛隊のイラク派兵に反対し「自衛隊に頼らぬイラクの復興支援を」求める署名5358人分を、たった1人で集めました。
 そして、その請願書を小泉純一郎首相に提出しました。首相は、その請願書を読みもせずに、学校教育を批判しました。
 ここで、彼には二つの憲法感覚が欠落しているように思います。
 第1に全ての国民は請願権が保障されておりその行使によって不利益待遇は受けないということ、第2に特定の政治的立場を学校教育に強制する支配・介入行為を侵していることです。
 さらに付け加えましょう。
 彼は、勇気ある高校生の自発的な活動を傷つけました。
 このことに対しては、怒りを感じざるを得ません。何も出来ない無能な高校生である僕が、言えたことでもありませんが。

 話が逸れました。

 今村歩さんは「52番目」なのかもしれません。まだ「3番目」かもしれません。
 もし、彼女のような人が、次々と名乗りを上げて、様々な活動をすれば、誰かが「100番目」になるかもしれません。
 さらに、イラク派兵を食い止めるべく、約1200人もの人々が、集団提訴を起こしました。
 彼らは、「25番目」かもしれませんし、もしかしたら「98番目」かもしれません。
 しかし、活動をしなければ、何番目にもなり得ません。活動をしない人は多く居るわけですが。

 最近の人は、どうも諦観が好きみたいです。

「どうせ政治なんて誰がやっても同じ、だから選挙なんて行かない」
「何言ったって無駄じゃん?」
「どーせ世の中なんざ変わらへんよ」

「諦観」は良いものです。僕も好きな言葉です。

 努力の放棄を正当化できるから。
 それに、矮小な自分自身が達観した存在にも思えるから。

 しかし、やはりコレではいけないと思うのです。だからこそ無力かもしれませんが、こうして僕は筆を取っています。
 大抵の、1人の人間の力は、些末なものです。しかし、そうしてあなたが諦めてしまっては「100番目」は登場しないのではありませんか?

 別にイラク派兵についてだけではありません。核廃絶だけではありません。
 他にも多くの為すべきことがあるはずです。

 あなたはどんな活動の「何番目」になりますか?


2003年執筆
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