「蹴りたい背中」論

Ideshunさん

*目次は保存されていないため割愛します
*このレポートは2005年2月頃に現代国語の課題として提出されたものを、張り切りまくって、かつ論点をはずして、書かれた物です。
*このレポートは『「蹴りたい背中」論』と銘打っていながら、ほとんど『おたく論』です。「蹴りたい背中」についての僕の意見を読みたい方は、最後の15%くらいを読まれることをオススメします。


Ⅰ,話題提示

「やだ、相当なオタクだね~。」

これは第130回芥川賞受賞作「蹴りたい背中」(綿矢りさ)の文中に出てくる台詞である。この文に僕は感慨と興味を抱いた。なぜなら「オタク」という言葉が、芥川賞という一級の小説賞の受賞作品の中で、何の抵抗もなしに使われていたからだ。文中では「にな川」という男子生徒が「オリちゃん」という女性ファッション誌のモデルの「オタク」だという設定になっている。この設定にはどのような意味があるのか、「にな川」はどんなオタクなのか、それを考える上で「オタク」について調べ考える必要があると僕は感じた。以下その調査および考察結果のレポートである。※引用は斜体で表した

Ⅱ,オタクの定義・語源

まず「オタク」という言葉の定義が必要であろう。

① コミック、アニメ、ゲーム、パーソナルコンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、互いに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称である。(東浩紀「網状言論F改」)

② 2,アニメ・マンガ・ゲーム・アイドルなどを愛好する人(たち)の事を指す
3,特定の趣味分野に生活の所得や時間の多くをかける人(たち)のこと
         (どちらもWEBサイト「はてなダイアリー」オタクの項、一部改)

 このような定義が一般的なようである(ここで一般的といったのは「オタク」の定義は非常に難しく、当人であるオタクたちの間でも議論の的となっているのが現状だからだ)。また、ファン・マニアとオタクの違いに関しては次のような定義がある。

「ファン」というのは対象が好きでたまらないという状態。だから「エヴァンゲリオンの綾波レイがイイ!」と叫んでるようなのは、これはオタクではなくて「ファン」なんです。
これが高じて「マニア」になると、対象そのものよりもそれに対する研究や収集の方にのめり込んでいくようになります。対象への愛情が一度裏返ってしまって、愛するための手段=収集や研究という客観的なスタイルへ走ってしまったという形です。このスタイルでいくらディープな方へ突走っても単なる「マニア、コレクター」でしかなく、まだまだ「オタク」とは言えません。
つまり「ファン」や「マニア」と「オタク」との差は、対象と自分との関係を振り返れるかどうかなんです。一方的に愛情を注いだり闇雲にデータを集めたりするだけでなく、それらが自分にとってどういうものなのかを考えて再配列しなければなりません。 『銀河旋風ブライガー』が好きなら、ただ「ブライガーがいい!」と叫んだりあらゆるアイテムをコレクションしたりするだけでなく、「なぜ『銀河旋風ブライガー』という作品が自分にとって素晴らしいのか、特殊なのか」を自分の言葉で語らなければならないのです。
       (岡田斗司夫「東大オタク学講座」一部改)

 つまり、オタクであるためには最低限の知性を持ち、対象に関して自分の意見を展開していくことが求められる。ただ単に愛好しているだけではダメなのである。

 それにしても、「オタク」という言葉はいつ生まれたのだろうか。「慶応大学幼稚舎出身のSFファンのおぼっちゃまたちが使い始めた」というのが一昔前の定説である。しかし最近は1983年に発行されたロリコン劇画誌「漫画ブリッコ」のエッセイで中森明夫が「おたく(当時はひらがな表記だった)」という言葉を使ったのが初めというのが定説である。
 
 どうしてこのように違う説が出てきたのだろうか。それは「使っていた」か「語句化した」かの違いによるものではないかと僕は考えている。確かに「おたく」という言葉を使ったのは慶応生達だろう。実際、その後彼らの中の何人かがアニメ会社に就職し、企画したアニメ「超時空要塞マクロス(※1)」で「お宅、今ヒマ?」というセリフが出てくる。このアニメは当時オタクたち(まだオタクという概念がないので実際にはオタクではないが、現在のオタクと同じような人たち)の間で大ヒットした。このことは「おたく」という言葉を広めるきっかけになったのだろう。しかしこの時点での「おたく」とはあくまで人称代名詞における「二人称」の「お宅」であったようだ。そのことは中森明夫のエッセイの中で、当時新宿三丁目にあったという「フリースペース」という同人誌も扱っていた書店に入り浸るおたくたちを指して「ホラ、あそこにもおたく、あそこにもおたく、あっアイツなんか超おたくね」なんて言ってみても、当人たちは何のことか分からず困惑する、という描写があることからもうかがえる。

 しかし中森明夫は「同人誌を漁りながら、相手のことをお宅と呼んでいるネクラな連中」を「おたく」という単語でひとくくりにした。つまり「お宅」という人称代名詞を使う特定の連中のことを「おたく」という普通名詞で表したわけである。このエッセイが連載された当時は「馬鹿にしている」と評判はよくなかったが、その後SF大会などを通じて着実な広がりを見せた。そして1988~89年の連続幼女誘拐殺人事件(通称:M君事件)でマイナスイメージを伴って爆発的広がりを見せるわけだが、このことは「Ⅴ,抑圧されるオタクたち」で詳しく述べる。

 さて、ここまで一般的な「オタク」の定義とその語源を述べてきたわけだが、この定義・語源と関連して、次のような非常に興味深い意見がある。

ひとつ、過去にさかのぼってみると、もともと「おたく」とは、「お宅」様、つまり相手の家の敬語であり、相手や属しているところの敬語として使われていました。きみ・あなたという二人称を面と向かって使えない、つまり個人に収束するのをためらわせるシャイな人々が、「なにかに属しているあなた」という意味で使い出したというのです。使用していたのは山の手奥様たち。
(中略)これはわたしの推測なんですが、子供たちが「お宅さぁ」という言い方をしていた背景には、「お宅」という言い方がすでに上の世代の人々によって頻繁に使われていた背景があるのではないでしょうか。特に、高度経済成長期の「核家族」の母親たちによって。だから、竹熊健太郎さんが「おたく」の歴史と特徴を抜き出してくださったとき、真っ先にチェックしたのは、もちろん「戦後の高度成長の成功による中流家庭の増加_おたくは経済的基盤の上に成立する」という部分です。
     (「網状言論F改」 おたクィーンはおたクィアの夢を見たワ)

 このような意見だ。これには非常に共感するのだが、1つだけ反論がある。この意見では「おたくは経済的基盤の上に成り立つので高度経済成長によって中流家庭が増えたことがおたくの増加につながった」ということが中心になっているが、それはおたくだけに限ったことではないだろう。たとえば学業について、1960年の大学進学率は8,2%だが1975年では27,2%と3倍以上になっている、これも中流家庭の増加の影響であろう。ほかにも高度成長期には大量生産・大量消費が美徳とされるなど、おたく以外にも高度成長によって増加したものはたくさんある、とくにサブカルチャーが発展した時期でもある。つまりおたくは経済的基盤の上に成り立つというのはある種当たり前なのであり、高度成長に視点を持っていったことは非常に重要だが、それをおたくに限定してしまうのはおかしい。しかしおおむねこの意見に賛成であることには変わりはない、高度成長はおたく文化にも影響をもたらしていたのである。

 では、ここで僕なりに「オタク」を再定義をする。

    メインカルチャーでないものを愛好し、そのことに関して持論を持っている。また、それを他人と発表・議論し得る能力を持ち、それを実行している人たちの総称。

 このようになったわけだが、少し説明を付け加える。「サブカルチャー」ではなく「メインカルチャーでないもの」とした理由である。どちらもほとんど同じことを指し示しているのだがニュアンスが違う。先にも述べたように「おたく」が急増したのは70年代の高度成長期だが、この頃は社会(学生)運動・共産思想などが多かった時代であり世の中が混沌としていた。言い換えれば、社会全体が「はみだし」ていた時代である(「はみ出る」というのは何かの組織から漏れた・外れたということであり、大多数から「はみ出す」のが本来だが、ここでは「世の中のほとんどの人が多様なジャンルに分散し、それぞれの革新・発展を目指した」という意味で使っている。つまり「ほとんどの人が今まで主要だった分野からはみ出していった」ということだ)。そこで、「サブカルチャー」と「メインカルチャーでないもの」の語感の差を考えたところ、後者のほうが「はみ出したもの」をよく表せると思ったため「メインカルチャーでないもの」という言い回しにした。 

(※1)超時空要塞マクロス・・・ロボットアニメとしてはガンダムの一大ムーブメントをうけた時代の作品であり、「リアル系ロボットもの」といえるが、マクロスそのものもロボットと見れば「スーパーロボットもの」の要素も見受けられる。一方、一話を通してまったく主人公が出撃しない、戦闘シーンがまったくない、といった回もめずらしくなく、当時のロボットアニメとしては特徴であるといえる。SFアニメという舞台を借りた恋愛もの、メロドラマだという声もある。一部のスタッフが使用していた「御宅」という二人称を登場人物に使用させたことが、この二人称の使用を広めたり、後のおたくという言葉 (用法) を生み出す一因となったともいわれている。

  ストーリー
 西暦1999年、突如宇宙より飛来、地球に墜落した物体が異星人の宇宙戦艦らしきものであったことをきっかけに、地球統合政府が樹立されている西暦2009年が物語の出発点。
 宇宙戦艦は人類によって修復され、地球統合軍の宇宙戦艦マクロスとして進宙式を迎えようとしていた。進宙式の式典のさなか、月軌道上(?)に出現した異星人の宇宙船らしきものを、突如マクロスの主砲が自律的に稼動、撃破してしまう。 意図せず異星人との交戦状態に突入してしまったマクロスは、発進を余儀なくされる。
 進宙式を見学にきていた主人公や、周辺の市街地市民など多くの民間人を巻き込むかたちで、何故か単発的な攻撃しか仕掛けてこない異星人と交戦しながらマクロスは宇宙を旅することになる。
                     (フリー百科事典「ウェキペディア」超時空要塞マクロスの項)

Ⅲ,オタクの視線

 さて、「オタク」についての定義が済んだところで、過去の「オタク」たちはどんなものを「オタク」としての対象にしてきたのかについて調べてみた。Ⅲ,ではそれについて述べていこうと思う。

  
  1,オタク達の興味対象の変遷

今まで「オタク」たちが興味を示してきたものの代表的なものを年表形式で次ページからまとめた(マイナーなものに関しては割愛した)。

*表が手書きだったため、保存されていません(汗)

  2, SF・特撮 1960年代後半~

さて、SF・特撮期の最初に持って来た「ウルトラマン」だが、この作品は意外にも「教育性」を含んでいる。ほんの一例に過ぎないが示すと、ウルトラマンの好敵手として有名な「バルタン星人」は「母星が兵器開発競争によって滅んだため地球に来た」という設定になっている。「バルタン星人」は「バルカン半島」が元になって命名されていることを考えたとき、当時のバルカン半島の状態になぞらえた設定であると言える。
また次の「仮面ライダー」だが、ウルトラマンが「地球の平和」をテーマにしているのに対して、仮面ライダーは「個人の安息」をテーマにしている感がある。そのことはウルトラマンが異星から来た正義のヒーローで、仮面ライダーは人間(変身はしているが)であることからもうかがえる。また、これはこの後の「戦隊物」にも影響をもたらしていると思われる。この二作品をまとめて考えてみると、当時の志向と技術を反映したものと言えるだろう。まずウルトラマンに関して言えば、ピアノ線を用いたジェット機(ミニチュア)の飛行、スペシウム光線などの「効果」などは当時としては斬新な方法であったし、仮面ライダーの乗っている「バイク」は当時若者たちの憧れであった、そして当然それには「ホンダやヤマハ」などによる最先端技術も用いられていた。そして年表を見ても分かるが当時はオリンピック・万博などが開かれ、新幹線が開通するなど「日本が発展している」というイメージが民衆に浸透していた。と同時に「完全な正義」が好まれていた時代でもある、しかしこれはGHQによる戦後の占領時におけるアメリカ文化の急激な流入が影響を及ぼしていると考えられる、このことが「正義の味方」志向を呼んだのだろう。
同じアメリカ文化の流入によって流行り始めたのが「SF(サイエンスフィクション)」である。世界的に見るとジュール・ベルヌなどが始まりであるが、今回は「オタク」についてであるので国内に限定すると、「SFアニメ」として当時圧倒的に流行った「宇宙戦艦ヤマト」が挙げられる。松本零次原作のこの作品も、先のウルトラマン・仮面ライダーと同じように当時の最先端が使われている。その最先端とは「宇宙飛行」である。この作品が発表されたのは1974年であり、ちょうど「アポロ計画」が終了した2年後である。また、「登場した星の名前を全部言う」などの現在見られる「マニア」が増加したのもちょうどこの頃である(この「マニア」がその後の「オタク」になることも多かった)。

さて、以上のことを考えてSF・特撮全盛期をまとめてみる。まず、この頃の作品は「正義」を主題にしていることが多く、後に見られる「善と悪(もしくはAかBか)の間で葛藤する主人公」というものはほとんどない。これは当時の上昇志向が呼んだものであろう。また、そのときのホットなニュースや技術を用いることで「最先端を走っている」というイメージを打ち出しているということも上昇志向との影響があったと思われる。上昇志向、上昇志向と連呼しているが、これはつまり高度経済成長における民衆の心理である。つまり「作品」として世の中に影響をもたらしすと同時に、作品自体も社会の影響を受けていた時期だということである。いつの時代でも「人気のある作品」は当時のニーズを満たしているから人気があるわけだが、この時代は特にそれが顕著だった時代だといえよう。

  3, アニメ①  1970年代後半~

SF・特撮の次に注目されたのが「アニメ」である。この「アニメ」に対するオタクたちの関心は今日でも続いているわけだが、今回は都合上①と②に分けた(理由は後に述べるが)。
 
まずSFとも関連して注目されたのが「機動戦士ガンダム」である。ミノフスキー粒子などの「実際にはないがそれらしい」兵器の名前や学問的に裏付けされた宇宙観によって評判を呼んだアニメで、「ニュータイプ」と呼ばれる新人類ひいては人類の意識革新がテーマになっている。この作品もまた「宇宙」が中心になっていて、初飛行こそまだだったものの、すでにスペースシャトル計画がNASAによって進行していたという背景もあり、「スペースコロニー」という宇宙空間で人間が暮らすという考えが登場する。この作品で主に注目されたのは「ロボット」「人間関係」「新人類」「宇宙空間」であり、「人間関係」を除いた3つは当時の最先端技術もしくは憧れの未来図である。やはりSF・特撮時代の「時代を反映する」というのは続いているようだ。
しかしこの作品で大きく変わったものがある。それは「主人公の位置づけ」というものだ。これまでのSF・特撮モノは「善か悪か」であったが、この作品において初めて「どちらが善か」という問いかけが出てくる。「主人公が何かと戦う」ということをコンセプトにおいているため、主人公寄りになってしまうのは必然的と言ってもいいが、それでも「どちらが善か分からなくなっていく登場人物たち」というのは見ていてとても興味深い。主人公の年齢が低いこともあり主人公自身の葛藤はあまりないが、ライバルとして登場する「シャア・アズナブル」は葛藤の末、最終的には自分の属していた組織を裏切り、主人公たちも組織とは別行動をとり、奇跡的な「主人公×ライバル」の和解が成立する。その過程ではどちらも「自分の属しているものは本当に善なのか?」という葛藤がある。結局この作品は「日本アニメの金字塔」とまで言われるようになり、現在でもアニメの出来について比較するときに引き合いに出されるほどである。

SF寄りであった「ガンダム」の次に出てきたのが「超時空要塞マクロス」である。Ⅱ,の最後に解説を載せたのでここでは省略するが、少しだけ付け加えるとするとこの作品はロボット・宇宙を扱いながらもガンダムとは毛色が違っている。その要因として挙げられるのが「恋愛要素」であったと考えられる(自由恋愛・恋愛結婚が増えた影響ではないかと思われる)。「ガンダム」では一部で主人公と女性の肉体関係を描写までしているのに「恋愛要素」についてはほとんど含まれていない。小説版「ガンダム」では主人公が死ぬ間際に「セイラさんあなたも連れて行きたかった」と言ったりもするが、その程度である(アニメ版では主人公は死なない)。「マクロス」に話を戻す。結局の所この作品の功績は「恋愛要素の導入」「お宅という言葉の普及」であろう。

そしてほとんど時を同じくして「魔法のプリンセス ミンキーモモ」が発表されたわけだが、これは上の二作のような「ロボットもの」ではない。魔法の国のお姫様「モモ」が人々に希望と活力を与えるという話で、その後に魔法少女モノという分類が出来たときにその初めとされた。この作品が発表された3年後に「男女雇用機会均等法」が制定されたことから考えても、「女性(女の子)が人のためになることをする」というこの物語は当時の女の子たちに大きな希望を持たせたのだろう。また、独特の着色と作画に「萌えた」(当時はそんな言葉は使わなかったが)という人もいたようだ。
「ミンキーモモ」の前年81年から86年まで5年にわたって放映されたのが高橋留美子原作の「うる星やつら」である。これに関しては「網状言論F改」(東浩紀)に面白い意見があったので引用する。

実はあの作品(※2)にはギャルゲーの本質が多く入っている。諸星あたる(※3)がプレイヤーで、そこにいろんな女の子が絡む。女の子は萌え要素で分類可能な作りになっている。髪の色も違う。基本的に一話完結で、ある意味マルチエンディングと言ってもいい。あたるも多重人格だし、作品内の時間は止まっていて、しかもキャラクターの組み合わせによっていろんな話ができるようになっている。同人誌みたいな世界なんですよ。実際、それこそ小谷さん(※4)のほうが詳しいと思うけど、『うる星』は『キャプテン翼』と並んで二次創作のマーケットを爆発的に拡大した記念碑的な作品でしょう。 (「網状言論F改」鼎談より東浩紀の発言)

   ※2 うる星やつら ※3 同作の主人公 ※4 鼎談者の一人

このことから考えると「うる星やつら」は現在の「ハーレムアニメ」の初めとも言えそうである。また、この作品の頃から「世間」に左右されない作品が出来始めたように思える(例外も存在するが)。

次に注目されたのは「キン肉マン」であるが、この作品はオタクよりも一般の子供たちに好評だったアニメなのでここでは割愛する。

ここで、現在好評を得ている「宮崎アニメ」が登場する。「風の谷のナウシカ」である。この作品は環境破壊に対する警告とも受け取れる作品だが、実は序盤に「殺す」ことに対する葛藤が描かれているという重要性がある。これまでの作品には「ガンダム」では実際に倒している対象は「ロボット」であるし、「マクロス」では「異星人」であるため「殺す」ということでの葛藤があまりない。「殺す」ことへの葛藤を描いたことで「死」を直視した作品であるといえよう。だがこの作品は表面的には「環境破壊に対する警告」を描いた教育アニメとなってしまっていて、せっかく「うる星」で「世間」からの脱却ができたのに、また元に戻ってしまっている。

次に現れたのが「聖闘士星矢」である。この作品はBL(ボーイズラブ_やおいとほぼ同義)の元ともいえるもので、もはやBL界においては「教祖」とでも崇められていそうな漫画家「車田正美」の作品である。作品自体にBL要素はほとんどないのだが、女性キャラが登場する場面が限りなく少なく、行き過ぎなほどの「男の友情」が描かれている。しかし当時の社会を反映したものはほとんどなく、その意味では評価されるべきだろう。

ここまで来ると「アニメ①」の時代の代表的な作品はあと2つになる。「機動警察パトレイバー(OVA)」と「トップをねらえ!(OVA)」の2つだ(OVAとは、TVで放映せずにビデオによる販売のみという発表形式の作品のことである)。まず「機動警察パトレイバー」だが、これは最近日本アニメ映画で初めてカンヌ映画祭にノミネートされた「イノセンス」の監督である「押井守」が監督した作品である。押井の作る独特な世界は「押井ワールド」と呼ばれ、国内外ともに人気が高い。その独特さは「狙った違和感」にあるといわれている。この作品自体は近未来の東京を描いた青春・産業・陰謀を扱ったアニメである。この時期の作品としては非常に特異で「密度の高いストーリー」が展開されている。そしてアニメ①期最後の代表作と考えられるのがGAINAXの「トップをねらえ!」だ。GAINAXは「新世紀エヴァンゲリオン」を制作したことで有名だが、この組織の成立に非常に重要な部分がある。この組織は「当時、特撮やアニメを愛好していた人たちがそれらを自主制作するようになり、その発表のために集まっていた人たちが作った」というもので、制作者自体が「オタク」なのである(実際、初期の社長である岡田斗司夫はその後「オタキング」を名乗りオタクのイメージアップと普及に努めている)。このアニメでは「熱血スポーツ少年」ならぬ「熱血少女」が主人公であることも面白いが、それ以外にも映画のように画面幅を調節したり、明度を非常に低くした画像で回想・エピローグを制作したりと斬新な方法が用いられている。「パトレイバー」と「トップ」の二つに共通するのは「密度の高いストーリー」である。

アニメ①時代をまとめてみる。一言で言ってしまえば「試行錯誤の時代」ということであろう。ストーリーはもちろんのこと、技法や演出についても試行錯誤を繰り返していた時代である。まず「ガンダム」が大当たりしたわけだが、これに便乗しないで制作されたのが「マクロス」「ミンキーモモ」であり、恋愛・男女の平等などを盛り込んだ。その後も「うる星」「ナウシカ」「星矢」などいろいろな趣向のアニメが制作された。そして最後に「パトレイバー」「トップ」とストーリー重視の作品が相次いだ。ここで「ストーリー重視時代」が到来したといいたいところなのだが、この後に訪れた「アニメ②期」を見るとその考えを新たにせざるをえない。あえて悪い言い方をすれば、最後の二作品は「花火が消える前の一瞬の輝き」であり、それまでの集大成が一気に花開いたといえるだろう。ただ、多くの作品に共通していたのは「社会の最先端を走っている」ということではないだろうか。


3, アニメ② 1990年代~

さて、相変わらずアニメブームは続くわけだが、ここでひとつ区切りをつけたのは「オタク」たちのニーズが変わってきたからだ。ここからはその様子を見ていく。

まず最初に変化の兆しを見せたのは「ふしぎの海のナディア」である。この作品はジュール・ベルヌのSF小説「海底二万マイル」をモデルにしたパロディ作品という、既存の作品の流用なのだが、主人公・ヒロインが美少年・美少女であるところが今までの作品と異なる。そう、オタクたちの新たなニーズとは「美麗さ」「萌え」だったのだ。
この風潮は次に流行った作品「美少女戦士セーラームーン」において顕著に現れる。この作品は「戦隊もの」+「魔法少女もの」+「一話完結」と今まで出てきた作品の特徴を混ぜ合わせているのだが、オタクたちの視線はそこではなく、ヒロインたちの「美少女ぶり」に向けられていた。この作品の二次創作では「陵辱もの」が相次いだことからもオタクたちの考えが読み取れる。また同時期に放映された「天地無用!」では主人公が女の子たちに囲まれてらぶらぶな生活を送るという「ハーレムアニメ」のつくりになっていることからもオタクたちの「美少女」に対する関心の高さがうかがえる。
そしてこの風潮は「機動武闘伝Gガンダム」「新機動戦記ガンダムW」で一般層にまで広がりを見せる。この二作品は「アナザーガンダム」と呼ばれる今までのガンダムとは違う設定の物語なのだが、登場人物に美少年を用いることによって女性層の獲得に成功している。また、ミノフスキー粒子などの分かりにくい用語をすべて排除することで子供たちにも分かりやすくしている(それまでのオタクたちからの評判はよくなかったが)。

さて、ここまで「美少女」という新たなニーズとそれによる「一般層の獲得」を述べてきたわけだが、ここで登場するのがあの社会現象にまでなった作品「新世紀エヴァンゲリオン」である。この作品の興行による総売り上げは10億円を超えるといわれ、有識人たちの多くもこの作品に興味を示した。
この作品はガンダムと同じように「人類の意識革新」がテーマになっているように見受けられる。ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」で知られるような「記号学」や「暗示」がたくさん含まれた作品だといわれ、OP(オープニング)だけでも「セフィロトの樹」や「智天使ケルビム」などユダヤ思想の象徴物が出てきたり、本編では(一例に過ぎないが)「夕闇に浮かび上がるエヴァンゲリオンのシルエット」など「象徴・暗示」のものが多く現れる。そしてこの作品は「登場人物の葛藤の物語」といえる。大人のエゴイズムと友達の気持ちとの間に板ばさみになる主人公、ずっとエリートで来た自分が何もできないということを思い知らされるヒロイン、そして最後には「自分の存在価値はなんなのか」という哲学的そして原点回帰な自問自答になっていく。これだけのテーマを持ち、またアニメにしては珍しく「心理」がテーマになっているというこの作品は一般層・知識層をも巻き込んで大ヒットを生んだ。
そう、これでストーリー重視時代が復活するかのように思えたこのアニメだが終盤でとてつもない裏切りが待っている。「人々が生きる気力を失い、人間としての存在を放棄していく」というところまで来て、主人公は葛藤の末「生きる」ことを望む。そして「生きる気力」を持った人たちは新人類として破壊された世界を、より平和で幸せな世界に作り変えていく。ここで現れるのがあの有名な「アスカが幼馴染のシンジは学校に行く途中で、転校生なのに遅刻しそうでパンを咥えたまま急いで来た綾波にぶつかってしまい、パンツを見てしまう」というシーンが展開される。これは裏切り以外の何物でもないだろう。「かわいいヒロインたちに囲まれて平和な生活を送るお気楽ハッピーエンド」は同人誌や二次創作の世界ではよくあることだが、ひとつの商業作品そしてこれだけの人気を呼んだ作品としては「最後に力尽きてなげた」感が否めず、結局このことによってたくさんの知識層を巻き込むことに成功した反面、「綾波萌え~」な(いやアスカのサディスティックな所がいいという人もいるが)美少女好きなオタクを急増させてしまい、90年代に入ってからの美少女ブームに拍車を掛けてしまったのは少し期待はずれである。
しかしこの作品で非常に重要な点がある。それは「アニメが社会現象を作った」ということである。これまでは社会現象やブームによってアニメが作られていたが、その関係が逆転したのがこの作品であるといえよう。

そしてこのあとは止め処も無く美少女ブームに拍車がかかっていく。98年には「カードキャプターさくら」が(これはロリコン趣味の人間を増やしたという点で結果的には多少の問題をはらんでいる。その上このアニメはNHK教育で放映された)99年には2年ほど前に大ヒットした美少女ゲーム「ToHeart」がアニメ化されている。その後も「まほろまてぃっく」「ラブひな」「円盤皇女ワるきゅーレ」など「美少女&ハーレム」なアニメが人気を博していく。最近のアニメで美少女・美少年が登場しないアニメはほとんどない。
さて、ここまでアニメ②の時代を大まかに追ってきたわけだが、結局この時代はどんな時代だったのだろうか。まず「美少女キャラクター志向」の時代であったことは疑いようが無い。先にも述べたように「ナディア」から始まったこの志向は「セーラームーン」「天地無用!」とどんどん顕著になる。そして(結果的には)「エヴァンゲリオン」で最終段階、つまりは成熟期をむかえる。このことも関連してこの時代のアニメは「時事的ニュース」との関連性が低い。
しかし、ここでもう一度年表を見て欲しい。このアニメ②の時代の作品群は1996年を境に変化が見られる。許容範囲を広げると「CCさくら」も前半期に含まれるとはいえ、1996年よりあとの作品は「他媒体からの移植作品」である。「ToHeart」は年表の「美少女ゲーム」の欄を見れば分かるが、2年前に大ヒットしたゲームのアニメである。そして内容はほとんどそのままだった。「まほろ」「ラブひな」は当時流行ったマンガが原作であり、追加要素などはほとんど無い。もちろん「アニメ」という分野自体「原作が無い完全なオリジナル」な作品は少ないのだが、1996年よりあとはそれがあまりにも多い(最近ではオリジナルアニメでも流行ったものもあるが、TVアニメではなくアニメ映画。新海誠の「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」などがそれにあたる)。「原作の世界観を使ったアニメ」ではなく「原作をアニメーションで表現しなおした」つまり「リテイク」的作品ばかりなのだ。こうなるとアニメ作品である価値というものが半減する(原作を読んでしまっている場合に、変化がほとんど見られないから。またアニメは枚数が多いため、どうしても原作のマンガや挿絵の画力には劣る)。つまり、「エヴァンゲリオン」で成熟期を迎えた後は倦怠期に入ってしまっていると言える。このことから最近はアニメはオタクたちのストライクゾーンからはボール1個分くらい外れている。

 4,美少女ゲーム 1990年代後半~

さて、アニメ②の時代の「美少女キャラクター志向」と関連して現れたのが「美少女ゲーム(通称ギャルゲー)」である。ここではその流れについて取り上げるが、現在美少女ゲームは年間600本売り出されているとも言われている。それだけの数のゲームを全て追っていくことは不可能だし無意味なので、年表で取り上げた作品を中心に「転換のキーワード」となった作品だけを選んで追っていく。
まず美少女ゲームの評論本において必ず取り上げられるのがLeafの「雫」であるが、今回はその前にelfの「同級生」とコナミの「ときめきメモリアル」を取り上げる。
どちらも「王道学園恋愛シュミレーション」であり、基本路線は「よくある話」である(この頃はこういうものが売れていたという参考程度にどうぞ)。しかし「ときめきメモリアル」において「主人公の名前が変更可能で、たとえば自分の名前に変更すると文中に出てくる主人公の名前は全て自分の名前になる」というプログラムが導入され評判を呼んだ。このことは「蹴りたい背中」の文中の「この方が耳元で囁かれている感じがするから。」と関係していると考えられるのであとで再度取り上げる。
 
さて、この王道ゲームの次に来たのがLeafの「雫」である。このゲームはさまざまな本で取り上げられているのでそちらを紹介する(単純に僕がプレイしていないというだけだが・・・)。

 と同時に、それまでは、ひとつのゲーム作品をアンソロジー形式で描くことはなかったし、そもそもPCゲームというジャンルが同人界に市場がなかったのに、身の回りの作家さんたちがそういう活動を行った、という現象自体にも興味を惹かれて・・・・・・。もう、その足で秋葉原まで買いに走りましたよ(笑)。

 まずはバッドエンドの切り捨てのすごさですね。従来のADV(アドベンチャー)型ゲームでは、主人公が死ぬことはあっても、ヒロインまでが死ぬ―それも、鋏で首を裂くような無残さで―という展開はありえなかったんです。

 「美少女」を大切に扱うジャンルだけに、むしろ逆だったんじゃないでしょうか?鞭や蝋燭はあっても、鋏はないですよ。あれが怖くて二度目以降のプレイができないという方もいたようです。そしてありえないといえば、月島瑠璃子(※5)や太田香奈子(※6)のような、異常をきたした後の女性がヒロインとして登場するなど、絶対不可能でした。
 同時期のアニメでは、「新世紀エヴァンゲリオン」包帯巻きの姿で登場した、綾波レイが人気をさらっていましたよね。これも一例ですが、壁を破ったというか、タブーがタブーではなかったと気づかせた衝撃は大きかったでしょう。
 (「美少女ゲームの臨界点」の「『雫』の時代の終わりから」原田宇陀児談)


※5 「雫」のヒロインのひとり。実兄に犯された衝撃で日常のコミュニケーションに異常をきたし、校舎の屋上で「電波」を受信している。主人公の内に自らと同じ「電波」を受け取る素養を見出し、事件を終結へと導く手助けをしてくれる。狂気ゆえのピュアネスと母性を感じさせる、「雫」の方向性を象徴するキャラクター。
※6 「雫」のサブキャラのひとり。生真面目な少女だったが、とある人物への恋心を利用され、ゲーム開始時点で精神崩壊状態に追い込まれてしまっている。冒頭、彼女が授業中にいきなり立ち上がり「せっくすせっくすせっくす・・・・・・」と繰り返すシーンは、一度でもプレイした人間ならほぼトラウマになるという。

同年にこの姉妹ゲーム(関連性はないが)「痕」も発表されている。「雫」は僕が法律上できないゲームなのでなんともいえないが「なんでもあり」を証明した初めのゲームであったようだ。このころから美少女ゲームはどんどん多様化していく。
「Pia・キャロットへようこそ!2」ではファミレスを舞台にした恋愛シュミレーションを「ToHeart」では王道学園モノに戻りながらも、ヒロインに「ロボット」や「不思議ちゃん系」「魔法使い」が登場するなど1997年内ですでに「なんでもあり」になっている。

しかしここで新しい方向のゲームが出てくる「WHITE ALBUM」である。これについても引用する。

女性キャラクターと関係が深まっていくプロセスをゲーム化するのが基本だとはいえ、必ずしも「恋愛」をストレートに描くとは限らない。むしろ「恋愛」などという、人間の欲情と自尊心と打算がからまり合いながら、ぶつかり合ったり傷つけ合ったりするドラマをマジで正面から描こうとしたら、現実の生々しい問題が山のようにつきまとってしまい、すっきりと楽しい物語にはならない。だから、多くの美少女ゲームは一見「恋愛ゲーム」のように見えながら、実はそのうわずみだけをすくい取って、不純物のない100%の快楽を表現しようとし、下層のドロドロには目を向けない。(中略)
 ところが先に述べたように、このゲームのテーマは、なんとずばりの「恋愛」であり、それを正面から描こうとしていた。決して「100%」を手に入れることができないドラマが、そこには展開されていたのだ。
                  (「美少女ゲームの臨界点+1」東浩紀)

このようなゲームとしては「君が望む永遠」や「雪のとける頃に・・・」などが有名だ(「WHITE ALBUM」の方が先に発表されているので「君が望む永遠」のオリジナルテーマではないが)。このようなゲームは「痛い系ゲーム」「鬱ゲー」などと呼ばれているが、これは先の引用の説明を読めば理由が分かるだろう(つまり、100%の快楽を求める人が多い中でこういう作品を発表したからだ)。

 あまりにも「アニメ・ゲーム」の説明が長すぎるので、残りは駆け足で紹介する。「100%の快楽を求めた作品」や「それ以前に同じような作品がある作品」は除外する(該当するのは「センチメンタルグラフティー」「WithYou」「終の空」「Kanon」「こみっくパーティ」「とらいあんぐるハート」「Canvas」「銀色」「水夏」「みずいろ」「シスタープリンセス」「歌月十夜」「NEVER7」「Wind」「D.C.」「グリーン・グリーン」「SNOW」「姉、ちゃんとしようよっ!」「マブラヴ」「斬魔大聖デモンベイン」「月は東に日は西に」である)。

次に出てきたのが「ONE~輝く季節へ~」である。これは前半のコミカルなストーリーが後半では一気に逆転し悲劇となるという二部構成で出来ていて、それでもまだ物足りない部分を「永遠の物語」というテーマによって埋め合わせている。ここでいう「永遠の物語」とは一種の「夢」であり「どこに辿り着くか判らない」物語である。この構成の仕方はこのあとKEYというブランドが立ち上がってからも(ONEの制作者たちが独立した)行われる。それは「Kanon」「AIR」「CLANNAD」においても(時がたつにつれて薄れてはいくが)用いられている。
さて、ここまで見てきて思うことはないだろうか。そう美少女ゲームは「100%の快楽を求める人が増える一方、もう一方ではどんどんリアルなゲーム」になってきている(または求められている)のだ。これは「ONE」の次にヒットしたゲーム「とらいあんぐるハート」でもみられる。このゲームでは「セックス」は「エロ」ではなく「愛情表現の一種」としてとらえられている。

また、このころから面白いものをテーマにした作品が出回り始める。年代順に並べていくと「久遠の絆」「終の空」「月姫」「水月」「それは舞い散る桜のように」「うたわれるもの」がそれにあたる。その面白いテーマとはそれぞれ「転生・前世」「サスペンス」「伝奇・吸血鬼」「山の民・特殊信仰」「精霊・記憶」「合戦・蜂起」である。これらの存在も手伝って、美少女ゲームの世界はどんどん「多様化」「心理表現・人間関係重視」になっていく。

そして「リアルさ」において他に追随を許していない、「人間関係描写」において過去最高の出来であろうゲーム「家族計画」が登場する。これは「家族や家を失った(捨てたか捨てられたかの違いはある)人たち」による「擬似家族」の話である。もはやこんなものがテーマになること自体美少女ゲーム界にとって「恐怖」としか言いようがないが、この作品は大ヒットを呼んだ。
ここまでくると「自分がそこにいるかのよう」に感じるというゲームが最高潮をむかえる。そしてそのうち「実際にはありえないようなストーリー」なのにプレイしたあとには「今体験してきた」かのような「感動」や「喜び」「恐怖」「疲労」を感じさせるようなゲームが出てくる。そういうゲームとして有名なのが「ファントム」「腐り姫」などである。

さて、ここまで美少女ゲームの時代を追ってきたわけだが、この時代は何の時代だったのだろう(実際には現在進行形だが)。一言で言えば「2次元の3次元化」の時代である。ゲームをプレイすることによって、あたかも「自分がその現場に居合わせた」かのような体験をすることが出来、またそれが求められる時代になってきている。だが、これはオタクバッシングとも多少関係するので次章で述べる。

5,現在・これから

美少女ゲームはまだまだこれからの部分があるとはいえ、アニメ・マンガ・特撮というこれまでオタクたちの興味対象の中心にあったものは成熟期を通り越し、倦怠期に入っている。多くのオタクたちが集まる「オタクの祭典」である「コミックマーケット」における活動ジャンルを見てもそのことがうかがえる。20~30年前はマンガの同人誌(→個人的な二次創作物。小説であったり、マンガであったりと発表形式はさまざま。商業作品は「アンソロジー」と呼ばれる)がほとんどだったが、最近は美少女ゲームが3分の1以上を占めている。

また「ライトノベル」と呼ばれるジャンルも盛んになってきていて、最近では「月姫」「Fate/staynight」などのシナリオを書いて有名になったシナリオライター「奈須きのこ」がライトノベル「空の境界」を書いて、大手新聞の書評で紹介されたり、ライトノベル作家から普通の作家に転向した「村山由佳」が直木賞を取ったりしている。また「イリヤの空、UFOの夏」は結構な反響を呼んでいるようで作家志望の若者や社会学を研究している学者などに注目されている。

しかし最近最も流行っているのはそれらのものではない。むしろ「自主制作」のものに関心が集まっている。たとえば「ひぐらしのなく頃に」や「東方シリーズ」は大変な評判を呼んだが、それらは全て「自主制作」の「同人ゲーム」である。商業化されてはいるが、新海誠の「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」なども自主制作のアニメ映画だ。

これらのことを踏まえたときこれからは何が流行るのであろうか。すくなくともあと5年は美少女ゲームのブームが続くだろう。しかし、だんだん「同人」と「商業」の差がなくなってくるのではないだろうか。10年15年後には「ゲーム会社」なんてものは用済みになっているかもしれない。そしていつまでもゲームブームが続くのかという疑問もある。まだ次に流行する媒体が見えてきてはいないが、もし「痛み」や「怪我」さらには「性行為」などをも五感で疑似体験できるプログラムが出来た場合はこれから30年はゲームブームが続くだろうが、そうでなければ現在高いクオリティを誇っている「アニメ映画」がオタクたちの視線の先に来るかもしれない。

Ⅳ、日本の誇る「オタク」

  1,市場規模は数兆円?
 
これまでのレポートで「オタク」の基礎知識を手に入れたことだと思う。ここからは「蹴りたい背中」とも関わらせながら「オタク」についての発展的な内容を述べていく。まず副題のとおり、オタクの市場規模についてだ。
去年の9月ごろに野村総合研究所が発表した推定データによると「アニメ・コミック・ゲーム・アイドル・組み立てPC」の5分野の「オタク」たちの人口は「のべ285万人(つまり重複含む)」市場規模は「2900億円」である。しかし経済アナリストで「食玩マニア」として有名な森永卓郎氏によると

まず、取り上げる分野が問題だ。アイドル市場とアニメ・コミック・ゲームの市場は、完全に異なっている。
 アイドルマニアというのは、美空ひばりや石原裕次郎といった昭和の大スターや、それ以前の歌舞伎役者の時代から存在した、どちらかと言えば古典的なマーケットだ。
 最近急成長しているオタク市場はそうではない。人ではなく、まるで恋をするように、キャラクターをこよなく愛する人々が増えているのだ。
 野村総研のリポートでも、アニメとコミックとゲームマニアの重なり度合いが高いと指摘しているが、その指摘のとおり、これらの市場を支えているのは同じ人、つまり「萌え」の人たちなのだ。キャラクターをこよなく愛することを「萌える」というのだが、野村総研のリポートにはこのコンセプトがない。もし、このコンセプトが分かっていれば、市場推計のやり方自体が異なっていたはずだ。萌え市場には3つの融合化が存在しているからだ。
 第一はメディアの融合化だ。いまのキャラクターはテレビアニメ放送だけでなく、最初から関連グッズからイベント開催までのビジネス展開を考えて作られている。それが分かっていれば、市場推計の範囲をフィギュアや食玩、トレーディングカードといったモノ系からメイド喫茶などのサービス系まで広げられたはすだ。
 第二は消費者と供給者の融合化だ。萌えの人たちは、しばしば自ら供給者となる。例えばワンダーフェスティバルで売られるガレージキットは、もはや模型産業と同じ地位を得ているのだ。
 第三は、新品と中古の融合化だ。野村総研の市場規模推計は新品だけに限っているが、萌え系の人々は、新品と中古の差別をしない。中古品を取り扱うショップは多いし、マニア系の出品が多いと言われるヤフーオークションの年間取扱高は、昨年度5000億円にも達している。
 これらのことを踏まえれば、おそらくオタク市場は現時点ですでに数兆円の規模に達しているだろう。

だそうで(ジャンルについての指摘は賛成である)、つまり「オタク市場は数兆円規模だ。もはやニッチ(すき間産業)ではない」と言っている。では、なぜここまでの一大産業に発展したのだろう。
まず一つ目として考えられるのが、これまで見てきたような「オタクの歴史」の長さだ。無論、メインカルチャーのジャンルに比べたら短いものの、「歌」や「踊り」といった一過性のものに比べるとはるかに長い時間人気がある。もちろん長い歴史の中で「オタク」である対象は変わってきているが、じっさいに「オタク」をやってきている人はアニメブームが来ようと美少女ゲームブームが来ようと関係なしに「オタク」であり続ける。「アニメだけのオタク」などという人はあまり存在しない。
 そして2つ目に「政府による奨励」である。1997年からは教育白書でアニメに関しての言及が始まる。去年の5月にはアニメやマンガなどの日本のソフト産業を保護・奨励するための「コンテンツ法」が参議院で全会一致で可決、成立している。他産業に比べて政府の保護が及んでいるのは大きい。
このような理由がオタク産業をここまで大きなものにしたのだろう。このような理由を考えると「オタク市場は数兆円規模」というのは「5、6兆円の規模」ではないかとも思えるほどである。

2,日本は世界の中心

もちろん「日本がすごい」などということを言いたい訳ではない。東浩紀氏も「網状言論F改」で指摘しているように日本の「メインカルチャー」や「学力レベル」に関しては日本の誇れるものなどひとつもない。そこにあるのはただ「屈辱」と「劣等感」「敗北感」だけである。
しかし「サブカルチャー」に関して、特にオタクに関してとなると話は一変する。そう、「オタク」だけに特化すれば日本は世界の中心、もはや「聖地」なのだ。いまや「オタク」は「Otaku」として「Tunami」と同じように世界共通語になりかけている。また、世界の一流大学―例えばハーバード大学やオクスフォード大学―でも日本のアニメ研究のサークルができたり、「ジャパニメーション」といって日本のアニメのことを指したりしている。海外の日本アニメマニアに「今どこに行きたい?」と質問すると「ハルーミ(晴海のこと。数年前はここでコミックマーケットが開かれていた。最近は東京ビックサイト)」と答える人がほとんどであるらしい。

だが、「よし、日本がはじめて世界の先頭に立ったぞ!」と喜ぶわけにもいかないのが真実だ。彼らが研究しているものにもう少し目を凝らしてみると、彼らは「日本人がアニメやマンガに興味を持ち、制作能力に長けている」ということを面白がって興味を抱いていることが判る。「宮崎アニメ」や「押井アニメ」に関しても、カンヌ映画祭などで高い評価を受ける一方、他の国からアニメが出ていないというのが大変気になる。「アニメ=日本」の図が出来上がってしまっていて「アニメ」を出せば「日本の独創性にあふれた作品」として高い評価を得てしまうのなら、それはアニメとしても映画としても正しい評価を受けていないことになる。
最近は韓国なども(といっても日本の作品の盗作だという声が強いが)アニメを作っている。世界的にアニメが作られるようになってきたとき、日本の作品が「世界のジャパニメーション」として再評価される日が来ると僕は信じている。実際「押井ワールド」などはすでにの一種の「芸術」と呼んでも差し支えないほどの「感性」と「精密さ」があると国内外で言われている。

3,なぜ日本に「オタク」が多いのか

ではなぜ日本に「オタク」が多いのだろうか。「オタクたちの興味対象は全て日本で作り出されたものだから当然」と言われてしまうと元も子もないが、それではなぜ「オタクたちの興味対象になりえるもの」が日本で作り出されたのだろう。
その下地にあるのは、はるかさかのぼって平安時代であるとおもわれる。この頃から「絵巻物」が作られ始める。実際には挿絵程度の意味しか成していないが、すべての場面に1枚ずつ絵があり、面積的にも大部分を占めているというのは現代のマンガに通じる部分がある。
並べ立てているとは思えない。多少であれこのようなことが行われたのであれば「オタク」にマイナスイメージが付きまとうという現状を作ったのは警察ということになる。まだまだM君事件については論議・論争が繰り広げられていて、詳細な部分はもはや迷宮入りとも言える。しかしこの事件の重大性は事件当時から全く変わっていない。

3,奈良女児誘拐殺人事件 2004年

 さて、最近起こったこの事件だが、重要性においてはM君事件の再演的な事件であるためそこまで高くはない。そしてマスコミからのバッシングもMの時とほとんど変わらない。「オタクは危険だ」「オタクは日本社会の膿」そんなことをただ言い続けているに過ぎない(しかし、美少女ゲームはおろか最近流行のアニメさえも知らない人が「ゲームのせいだ」と言うのはどうなのだろう。べつにオタクを批判してもいいが、せめて1回やってみてから話すべきではないだろうか。新聞などに載っている記事でも先入観で話している部分が目立つ)。しかし、オタクたちにとって大きな打撃だったのは、M君事件から15年が経過し少しずつ「オタク」のイメージがアップしてきたところでこの事件が起こったと言うことだ。


Ⅴ,「蹴りたい背中論」への導入

さて、蹴りたい背中の文中に次のようなシーンがある。

ファンシーケースまで這っていき、洟をすすりながらつぎはぎ写真を慎重にスクラップに挟む彼を見て、ぞっとした。(綿矢りさ「蹴りたい背中」)

この周辺から読み取れることとして「オタクの蒐集癖・顕示欲」が授業プリントの中で挙げられているので、「オタクの自己顕示欲」についてのべる。

まずオタクに自己顕示欲があるかということだが、同人誌や評論本・ネットレビューなどがたくさん出回っていることからもわかるように、オタクたちは自分の意見をはっきり主張する。それが一種の自己顕示欲なのであるが、それは「欲」とは違うものではないかと僕には思われる。まず最初に述べた「オタク」の定義からもわかるように、「オタク」は必ず持論を持っている(と言うより持論が無いとオタクではない)。するとオタクはその作品を愛するがゆえにその作品に関して語ったり、広めたりしようとする。それは「欲」というよりは「オタクの自然な行動」つまり「本能」である。そして本能であるのでそれを一般人に対しても行ってしまう。すると一般人からは「うっとおしい」「危険な奴」「非常識」などと言われるわけだが、これらの一連の行動は「オタク」の本能から来ている行動であるためにどうしても止め難いものがある。

さて自己顕示欲について説明をしたところで授業プリントにもどる。すると、ひとつ反論しなくてはいけない意見が出てくる。小谷野敦氏の「綿矢りさの仕組み」に出てくる「コレクターというのは、元来、コレクションを人に見せるために蒐集をするものであって、オタクもまた、最終的には自分のオタクぶりを他人に見せたいのである」という意見である。はっきり言ってしまうとオタクはこんなことは考えていない。たしかに他人から見るとそのように見えるのかもしれないが、実際は違う。ずっとオタクをやっていると、自分が打ちたてた論がたまってくる。そして自分が好きな作品はみんなに知って欲しいと思う。この2つが相まって、いろいろな人に自分の論を語り始めるのである。
しかしこれを違う人が見ると「自分がどれだけその作品について知っているか」を語っているつまり「ひけらかしている」ように見える。だから小谷野氏のように「オタクは他人に自分のオタクぶりを見せたいのだ(つまり自己顕示欲の塊)」と考えるわけだが、実際は「あまりにもその作品を愛しているが故の行動」なのであり「見せたい」というより「気が付いたら語っていた」といった感じなのだ。

そしてもうひとつ導入部分で述べたいのは「登校拒否・オタク」という現代用語の解釈だ。この二語はあらゆる点で大変難しい言葉だ。この二語に関する書籍は100冊以上出ているし、そのどれもが違う論理を展開している。そういう難しい現代用語を使ったのにはわけがあったのだろうか。必要性があったのだろうか。弊害はないのだろうか。そこのところを考えながら次の蹴りたい背中論を読んで頂きたいと思う次第である。 

Ⅵ,「蹴りたい背中」論

ここに来てやっと本題に入る。
読んでいただいている方の予想通り、本題のほうが前置きより短い。また、本題は蹴りたい背中論を展開しつつも半分は「綿矢りさ批判」で構成されている。論点は「オタク」と「愛」である。


まず、このレポートの最初に持ってきた「やだ、相当なオタクだね~。」についてであるが、さっそくこの表現に疑問を感じる。そのためにはまず、にな川がどんなオタクなのかを考える必要がある。
まず彼は「アイドルオタク」である。しかし本当に彼は「オタク」なのだろうか。そこで彼の「オリちゃん」に関しての考えや意見を抜き出してみる。

「恋人か、ファンとしては痛烈な響き。いや、でも、おれは受け入れるよ。おれはオリちゃんに彼氏がいても良い派なんだ、だって彼女もう27歳だし。ネットとか見てると、それすら嫌なファンもいるみたいだけど、そこは、譲らなきゃ・・・・・・。」

「オリちゃんには老いは染み込まない、ってこと。」

このくらいである。この程度の意見で果たしてオタクといえるのか、と疑問も感じるが、自分の考えを持っていることは持っているのでとりあえず彼は「オタク」であると考える。

しかしここであらたに疑問を感じる。彼自身は「ファン」と自称しているのだ。しかし最初に述べたように、ここまで「オリちゃん」についての情報を集めているのなら少なくとも「重度のマニア」であることは間違いない。そして多少なれど意見を持っているのだから最低限の「オタク」の条件はクリアしている。また彼は「オリちゃん批評の大御所」というわけでもない。このことを考えると「相当なオタク」「ファン」という表現がおかしい事に気付く。
まず「オタクぎりぎり」としか言いようのない程度しか「語る」ということをしない。たしかにオリちゃんに関するセリフばっかりなのだが、その全てが「オリちゃんって~なんだよ」「オリちゃんが~て言ってた」というものであり自分の言葉で語ったものではない。その彼を「相当な」オタクというのは無理がある。また彼ほどいろいろ調べている人間が、自分の考えや知識量がオタクとして認められ得るレベルに達していることに気付かないはずがない。

では、視点を変えて「一般人から見た」考えで「オタク」や「ファン」を判断していると考えるのはどうであろうか。これも途中で上手く説明できなくなる。誰の目から見てもにな川が「ファン」ではないことは明白だ。あの異常な蒐集から考えても、最低でも「マニア」という単語が当てはまるものであることは誰もがわかる。そうすると「一般人から見た判断」でもないということになる。

こうなると残るのはひとつ。「オタクやファンという言葉を定義せずに使った」というものだ。つまり「私」や「絹代」は「オタク」という現代用語を使い、にな川は頑なに「ファン」という言葉を使っているとするものだ。しかしこれは作家としてやってはいけないことではないだろうか。この物語の中心にあるもののひとつとして「オタクの少年」というものが存在している。そうすると「オタク」という言葉に対して適切な理解をするということは必要不可欠であり、たとえ登場人物ごとに「オタク」の定義が違っていたとしても、その定義の差異を表すことができる「ものさし」というものは存在しなくてはいけない。しかし蹴りたい背中ではその「ものさし」が存在しない。「私」たちには「オタク」を使わせておきながら、理由を示す文もなしに「にな川」に「ファン」を使わせている。ましてやテーマに「オタク」が含まれていることを考えると「歴史小説で時代考証が間違っている」くらい重大な問題である。なぜ選考委員たちがこのことを指摘しなかったのかが疑問である。

にな川はどんなオタクかという話に戻す。これはつまり必須課題の「にな川の歴史的位置づけ」である。まず彼が「オタクる(=オタクなことをする)」対象としているのは「アイドル」である。このアイドルというのはいつが全盛なのだろうか。それは1970年代の「アイドル黄金期」に他ならない。しかしこの時代に「オタク」という言葉はない。そう考えると88年のM君事件で「オタク」という言葉が広まり、「オタク」に属する人が増えた時代にさまざまなジャンルの「オタク」が誕生した。そのなかの「アイドル」分野であったと考えるのが妥当だろう。しかしマイナーなモデルでさえライブを開くようになったのは、94~95年ごろからの話であり、そういう意味では「アイドルをオタクる対象としている」という点では90年代のオタク「この作品の時代」という点では94~95年以降のオタクとすることができる。

さて「オタク」という観点からにな川について分析をしたわけだが、ここでいったんテーマを「愛」に移す。
ここで述べる「愛」とは「私」と「にな川」の間に成り立っている「擬似恋愛」と「私」の「絹代」に対する「異性愛」である。

まず、にな川との「擬似恋愛」についてだがこれは「形式恋愛」とでも言った方が分かりやすいかもしれない。つまり、行為自体は「付き合っている人同士」のようなことをしながらも、そこには「愛」というものが存在しないということだ。
これには2人の間の特殊な関係が影響している。まず「私」は彼に対して同類意識を抱くわけだが、彼のほうが濃い人種(ここでオタクという概念が用いられたわけだが)であることを知り、多少引くとともに同情と軽蔑・嫌悪感を感じ始める。しかし途中から、「自分は何でも分かる」と思っていたのが「自分は本当は何も分かっていないんじゃないか」と思わされ始める。すると今までの自信に根拠がなかったことに気付き、自分の態度を改め始める。というのが大体の流れだ。
具体的な出来事に対応させると、最初に彼の部屋を訪れたのは「同類意識」から来る興味。次に訪れたときも興味であったが、このとき彼に対して嫌悪感・軽蔑の気持ちが生まれた。軽蔑というのは裏を返せば優越感なわけであり、「私」本人でも分からない「何か」において自分は彼より優れているという気持ちが生まれた。しかし陸上部の練習中のやりとりで、「本当は何も知らない」ということを自覚させられる(課題4参照)と同時に彼に対する余裕もなくなり、接しにくいと思いながらも何とか普通の友達関係を築こうと努力が始まる。
そして最終的には「恋愛になりそう」な感じを残したまま物語は終わるが、なぜ「擬似恋愛」が生まれたのだろうかと考えてみると、これは「擬似恋愛」にさえも当てはまらないという問題が発生する。

「恋愛」であるためには双方向からの「恋」や「愛」が成立しなければならない。擬似恋愛ならば「恋愛の真似事」という意識が双方になくてはならない。しかし、「愛しさとも違う、いじめたい・いびりたい」という感情を抱いているのは「私」だけであり、彼はもともと「オリちゃんを知ってる、会ったことがあるやつ」として付き合っている。

しかしなぜ「擬似恋愛のような」関係を持ち出してきたのだろうか。理由としてひとつ考えられるのは「私の気持ちの変化をより分かりやすくするため」というものだ。同人誌や二次創作の世界でよくあるストーリーに「お試し(擬似的)のお付き合い」というものが存在する。何かしらの理由でお試しで付き合うことになった二人が最後はゴールイン、といった話だ。蹴りたい背中は恋愛物語ではないので「恋愛」に発展する必要性はゼロであるが、気持ちの変化を描くという用途でこのような図式を持ち出したのだと思われる。

そして「愛」のもうひとつが「私」の「絹代」に対する異性愛である。女同士に異性愛という言葉を使ったのは、ラカンの指摘する「異性愛者とは、男女の別なく、女性を愛するもののことである」という考えを使ったからだ。
「蹴りたい背中」のライブに行く場面で「絹代と一緒にいる時間の方がデートっぽい気分だ。私は絹代とちゃんと話せるかにどきどきしている。」という文がある。このことから考えると、「私」は絹代のことが「恋」という意味で好きだということになる。この事にどういう意味があるのだろうか。

この「私×絹代」という組み合わせを登場させたことで「私」という人物像を浮かび上がらせているという意味がある。にな川に「ある種サディスティックで異様な感じが漂う愛」を感じている少し捻じ曲がった「私」と、絹代と会話することにすらドキドキする素直な「私」。このかけ離れた「私」像が鮮明に浮かび上がっている。
 
さてこの2つの愛について読んできて分かっただろうが、「蹴りたい背中」では「恋愛」としての「愛」は登場しない。物語や人物に関して、より的確で分かりやすい表現を行うための「恋」であり、双方向からの「愛」による「恋愛」ではない。これはある種文学界に対する挑戦である。過去の名作はすべて恋愛的要素を濃く含んでいて、その際の心理描写に重きを置いている。しかしこの作品ではあくまで「心理描写をするための方法」としての「恋愛」であり、恋愛以外で代替できるのならそれでもかまわないという程度のものである。恋愛中心でない物語がどれだけのレベルまでたどり着けるかに挑戦した作品といえる。

ここで話は「オタク」に戻る。結局この物語の中心に「オタクの少年」を持ってきたのはどういう意図があったのだろう。
 
まずひとつには「時代性のある言葉」としての「オタク」を使いたかったというのがあると思う。オタクという言葉にきちんとした定義を与えなかったのはまずかったと思うが、登場人物に「オタクだね~」という言葉をしゃべらせたのは画期的であったし、それによって「ある種のかっこよさ」を出そうとしたのかもしれない。

そして二つ目に「周囲と打ち解けない・打ち解けられない人間の代名詞」としての「オタク」である。この考え方自体オタクバッシングによる部分が大きいことはもうお分かりだと思う。しかしこれに関しては「綿矢りさ自身のオタクに対するイメージ」なのか「売り出すために、大衆化した定義を使った」のか分からない。どちらにしろ、M君事件から十数年たった今でも大衆のオタクに対するイメージがよくないことはわかる。

このような意図があったと思われる。しかし、依然マイナスイメージは強く、このような小説も多少とはいえバッシングにつながっていっているのは残念である。

Ⅶ,まとめ

さて、これまでのことを踏まえてまとめてみる。
まず、この小説の中で「オタク」という言葉が使われたのは「流行り言葉として」と「協調性のない人間の代名詞として」という2つの理由からであり、このような設定で作られた「にな川」という人物は、「実際にはいい人間なのだが、オタク・ネクラな雰囲気と、外見を全く気にしないという部分があり、そのため交友関係などはない」人物、まさに「オタクのイメージ」をそのまま描いたような人間として描かれている。
またそれ以外にも「異常なまでに対人関係を嫌う私」との同類感を醸し出し、その後の「私 対 にな川」というストーリー展開にもって行きやすい設定になっている。
またこの「にな川」をオタクのなかでさらに細かく分類すると、「アイドルオタク」にあたり、そのアイドルとは90年代の多種多様化時代におけるいちジャンルとしての「アイドル」である。有名歌手以外でもライブを行っていることから94・95年以降だと推測される。
そして主人公である「私」は対人関係を異常に嫌う人物であるが、それは中学校の頃の体験によるものだと本人は主張する。しかし、どう見てもその主張は幼稚であり、単に本人の忍耐や努力が足りなかったことを認めたくないがためのものとしか思えない。実際、中盤以降はそのことを自覚するようになり、改善のために努力する様子も見られるようになる。
 
ストーリーに関していえば、恋愛を中心としない珍しいストーリーである。テーマに「オタク」を持ってきたところが目新しいが、実を言えば昔も「不登校」「リストカット」など当時事件性のあったキーワードを使った文章というのはよくあった。恋愛を中心としないというより、比喩のように「表現を際立たせる」ための方法として恋愛を扱っている。その例が「私」と「絹代」の異性愛であり、にな川へのサディスティックな愛である。

結末は「私」は対人関係を持つための努力をはじめ、「にな川」はオリちゃんのライブでの騒ぎにより気力を失っているように見えながらも、「私」に対して心を開き始めている。それは彼にしては珍しく私が次の言葉をしゃべるのを期待していることから読み取れる。


最後の最後に時間がなくなって適当になってしまった。だが、まだ仮説の域を出ないものの、面白い説が浮かんできているので書き留める。

実は「にな川」という人物はほとんどのシーンにおいて中心になっていて、シーンの起点を探すと彼に行き当たることが多い。例えば「私、駅前の無印良品で、この人に会ったことがある。」というのは彼がファッション雑誌を読んでいたことが起点になって発生したセリフだ。
その上、「私」は物語が進むにつれて次第に「自分の無知さ」を思い知っていくのに対し、彼は「世の中の全てを知っている、見ている」と感じさせる部分が多々ある。例としてあげれば、「長谷川さんも、生物の班決めの時に取り残されていたもんな。」「~って、最高に悪趣味じゃない?」「でも分かるな、そういうの。というか、そういうことをいってしまう気持ちが分かる、ような気がする」などがその一部だ。しかしここで疑問が出てくる。全てを知っている登場人物というのは存在しえないはずなのだ。
しかし実際は物語の起点に彼が存在しているのに、物語をすべて見届ける存在、つまり終着点としての彼もまた存在するという状態において「私」を形式上の主人公として用いることによって、この物語を発生させた「にな川」とこの物語の終わりを見届ける「にな川」の間を結ぶ存在としての「私」を成立させている。そしてその裏では「にな川」という人物が物語を作っているという事実が隠されているのである。

意見として完成する日が来たら再度提出しようと思う。

参考&引用資料
書籍
東浩紀「網状言論F改」(青土社)
東浩紀「美少女ゲームの臨界点」(自主制作本)
東浩紀「美少女ゲームの臨界点+1」(自主制作本)
斉藤環「博士の奇妙な思春期」(日本評論社)
一橋文哉「宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ―」(新潮文庫)
岡田斗司夫「東大オタク学講座」
岡田斗司夫「オタク学入門」(太田出版)
藤野保「日本史事典」(朝倉書店)
ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」(東京創元社)
GAINAX「新世紀エヴァンゲリオン絵コンテ集」(富士見書房)
兜木励悟「エヴァンゲリオン研究序説」(KKベストセラーズ)

ビデオ
「新世紀エヴァンゲリオン」
「機動戦士ガンダム」
「魔法のプリンセス ミンキーモモ」
「トップをねらえ!」
「ふしぎの海のナディア」
「仮面ライダー」

ゲーム
「ToHeart」
「久遠の絆」
「君が望む永遠」
「水月」
「ファントム」

 WEBサイト
ウェキペディア(http://ja.wikipedia.org/
はてなダイアリー(http://d.hatena.ne.jp/
北林 謙(http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2004/pdf/cs20041004.pdf
暮標(http://www.geocities.jp../../zaregoto/otaku.htm
東浩紀(http://www.hirokiazuma.com/index.html
松本晶(http://www.yk.rim.or.jp/~h_okuda/wwf/w22_matsumoto.htm

以降、2006年4月9日追記

シンさんへ:すみません、参考サイトとして暮標を載せたにもかかわらず、連絡していませんでした。レポートを出した国語講師の方以外は読んでないはずです。でもすみません・・・

さて、もうすぐ高校生になる、ちょっとは成長した(?)自分の意見を数行?書き足し。

結局「私」は、学校において友達がいない(作れない)異質な存在だったわけです。そんな状況で、同じく異質な存在として、「にな川」に注目した。このとき、「私」は仲間を求めていた。そして仲間を手に入れた、と心のどこかで思っていたのでしょう。しかし、「にな川」が、自分よりさらに向こうの世界にいる、さらに異質である、ということに気が付いた。そこで「まだ引き返せる」と感じたため、「にな川を軽く蹴る」という行為によって、「自分と同じ存在だと思っていた虚像」と決別し、実像がもっとまともであったということを初めて自覚するわけです。
そして僕は、やはり今でも、レポートの最後で打ち立てた仮説を捨てられない。結局「にな川」はこの話の中での「神様」だった。そう、村上春樹の文章で登場する「羊男」のようにです。たぶん「にな川」は「私」の作り上げた空想、もしくは必然的に与えられた、「くもの糸」だったのでしょう。彼の存在はある種「物質的」です。しかし、物質である以上、決められた法則にのっとって動くわけですから、その存在理由が「私」を救うことだったのではないでしょうか。「私」は自分自身で作った空想を反面教師に「一般的」な人間としての自分を取り戻したわけです。こういった読み方をすると、「蹴りたい背中」は「自己世界における、自己補完」の物語であったと定義付けられます。


以上。全部読まれた奇特な方、もしいたらですが、ありがとうございました。
今から思えば稚拙な部分も多々ありますが、中学2年生が3日間で書いた文章、と言うことに免じて多少はご勘弁を。


感想をお寄せください http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P46772075