僕は、ずっと待っていた。自分でも気付かないうちに。
彼女の、その小さな手から、羽根が飛び出す瞬間を…。
「お兄ちゃま~!!」
「…ん?あ、花穂」
学校の帰り道。家路を急ごうとする僕の後ろから高い声が追いかけてくる。僕の、多分一番よく知っている声。後ろを振り返ると、周りの視線も全く気にする様子の無く、思いきり手を振りながら駆けてくる少女の姿。僕の妹の花穂だ。
「あんまり慌てなくていいぞ、そうしないと―」
と、僕が言っているうちに、少女が足元をつまずかせた。周りに居た女子の1人が、あっ、と声をあげる。
べしゃっ!
盛大にこけた。周りの人も目が点になっている。いつもより派手に転んだようなので、少々急いで駆け寄る。
「お、お兄ちゃま…」
「大丈夫か?…あちゃ、擦りむいちゃってるな…」
立ち上がろうとする花穂を手で制止して、様子を見る。どうやら膝を擦りむいてしまったらしい。涙目になっている。
「ごめんなさい、お兄ちゃま…。花穂がドジだから…」
「いいんだって!……あ、痛いか?」
一瞬花穂の体がビクッと驚いたように動く。
―――まただ。自分の声を上ずらせないように意識しすぎて、逆に声が低くすわってしまった。……そもそも、何故僕の声が上ずりかけるのだろうか。
「…お兄ちゃま?どうしたの?」
「え?…あぁ、いや、何でもないよ」
思考のループに陥りかけた僕を、花穂が引き戻してくれた。自分のことは、自分の部屋で、自分一人しか居ない時にゆっくりと考えればいいのだ。
「で、花穂。傷は大丈夫?」
「うん、大丈夫みた…痛っ…」
立ち上がりかけながら、花穂が痛みに顔をしかめたので、慌てて体を支える。足をひねったのかもしれない。
「あんまり大丈夫じゃないな…。よし、おんぶで家まで行こう」
「ええっ!?」
「別に恥ずかしがることないだろ、もしかしたら足ひねってるかもしんないし」
やはり人前でおんぶされるのは恥ずかしいのだろうか、戸惑いの声を上げた。しかし、このまま一緒に歩いて行ったら足の傷が悪化するかもしれない。
「う…うん」
本人の了解が得られたのだから、話は早い。善は急げ、ってやつだ。
「それじゃ、早く乗って。時間は短い方がいいだろ?」
「なるべく人がいない道通ってね?お兄ちゃま…」
「分かってるよ。…そりゃ恥ずかしいよな」
流石にこれだけの通行人の居る場所を、花穂をおんぶしたまま突っ切るのは多少ならずとも恥ずかしい。人通りの、比較的少ない道の行き方を思い浮かべながら花穂を乗せる。
「よっ…と、それじゃ、さっさと行こうか」
「う…うん…」
既に僕たちは、かなりの注目を浴びてしまっている。人目を避けるように、多少遠回りではあるが、小道を通ることにした。
花穂の吐息がすぐ後ろで感じられる。既に小道に入ってしまったので、人通りは無いと言って良い。花穂の手は僕の両肩にかけられていた。少し右側へ顔を出して、その気配がして、花穂が話す。
「お兄ちゃま、今日は本当にごめんなさい。花穂のせいでいつもお兄ちゃまに迷惑ばっかりかけちゃって…」
半分涙声になっているような気がした。
「そんなことないよ、そのおかげで…なんて言ったらダメか…。久しぶりに花穂をおんぶできたし。大きくなったな」
「お兄ちゃまの背中も大きいよ…」
そう言って、多分頬を僕の背中に押し付けたのだろう。首に腕を巻きつけた。服を通して背中に、そして首にゆっくりと暖かい感覚が伝わってくる。
何故だろう、妙に楽しい気分だ。妹が怪我をしているというのに不謹慎だが、そんな気分である。
その時に、僕はあることに気がついていた。花穂の手の中から淡く青い光が僅かながらにもれているということに。注意深く見なくては気にも止まらないような幽かな光。
その光はとても危うく、そして大切なものである気がした。その光は当の花穂自身には、見えていないようだ。僕は、その手の中にある何かを握りつぶしてしまわないようにと願った。
数日後には、花穂の足の怪我もすっかり良くなった。ただ、チアの練習が遅れてしまったことで、花穂は相当に焦っているようだった。チアのレギュラー昇格テストも近かったので、なおさらの事であろう。
ある日、自分の部屋で小説を読んでいると、部屋をノックする音が聞こえた。休日の昼間から小説を読んでいるというのも中々陰気な話だとは思うが、趣味だから良いことにしている。
「お兄ちゃま、入っても…いい?」
扉越しに花穂の声が届く。
「ん?どうした?」
扉を開けてみると、チアのユニフォームを着た花穂の姿が僕の目に映った。
「…花穂?」
無論、名前を呼んだことに理由は無い。ただ、言葉が思いつかなかっただけだ。
「あのね、花穂、この間のケガで、チアの練習すっごい遅れちゃったんだ…。でね、お兄ちゃまに練習見てもらいたいんだけど…いいかな?」
「……今から?」
「うん…」
「ここで?」
「うん……ねぇ……ダメかな?」
半分気恥ずかしそうに、上目遣いでこちらを見てくる。ココで断るというのは非常にマズイ気がする。
「あ、あぁ…いいよ」
「ホント!?それじゃあ、早速はじめるね!!」
花穂は嬉しそうに目を輝かせ、すぐさまバトンを手に取り、演技を始めた。
「……………………すごい」
僕は思わずそうつぶやいていた。
どうやら僕の部屋は広いらしい。少し物をどけただけで、花穂の演技には全く支障がないほどのスペースが確保されているのだから。
普段の花穂からは想像もつかないほどの真剣な顔で、バトンをしなやかに回している様子は、僕を絶句させるには十分だった。普段は遠目からでしかこの姿を見ることが出来なかったが、近くで見たときの迫力や気迫は凄いものがあった。
そして、1番難しいと思われる部分に入った。前に練習を見ていったときに、いつも失敗していた部分だったはずだ。
「………きゃっ!?」
「え?」
花穂の指と指の間からすべり落ちるバトン。しかし、僕はしばらくの間それが何を意味するのか何故か理解できなかった。
「ふえぇ……また失敗しちゃった…どうしよう、お兄ちゃまぁ…。これじゃあ花穂、テストに……」
「花穂……」
半泣きになってしまった花穂の頭を軽くなでる。……なでてやる、とは言わない。花穂のためではなく、自分の意思でやっていることだから。
「お兄ちゃま…」
「それじゃあさ、今度は失敗してみた部分だけやってみようか?」
我ながら非常に単純なアドバイスだと思った。しかし、僕にはこの程度のアドバイスしか思いつかなかったのだ。
「う……うん…」
「大丈夫、花穂ならできる」
まだ不安げな顔の残っている花穂の両肩をポンとたたいて励ます。
「緊張しなくていいんだよ、失敗しなきゃ上手にならないでしょ?」
「うん、そうだよね、お兄ちゃま。花穂、がんばるよ!」
ようやく花穂の顔に笑顔が見えてきた。僕の表情も自然と緩む。
「…………あっ!」
「…!」
先ほどの決意から30分が経とうとしている。しかし、その決意とは裏腹に一向に成功する兆しは見えなかった。
「うぅ……いつもお兄ちゃまに励まされてばっかりだから、チアでお兄ちゃまを応援しようと思ったのに…これじゃあ……っく、ひっく…」
力なく地面にへたり込み、嗚咽を漏らしつつ泣いてしまっている花穂を前に、僕は少なからず動揺をしていた。
「花穂…そんなに慌てなくても…いいんだよ?」
「え……?」
花穂が顔を上げてこちらを見る。その顔は涙ですっかり濡れていた。
「僕は花穂の前から居なくならないんだから。ちゃんと待ってるからさ、花穂がそのユニフォームで、僕を応援してくれるのを」
「お兄ちゃま……でも……花穂は……」
花穂の言葉を遮るように、僕は花穂の手を握った。
「お、お兄ちゃま?」
「ほら、花穂。僕はちゃんと花穂の前にいるでしょ?絶対に居なくならないから……じっくりやればいいんだよ?」
「う…うん…」
花穂はうつむき加減でそう答えた。元気を取り戻してくれれば良いのだけれど。
しかし、僕は気付けなかったのだ。この瞬間、花穂がある決意をしていたことに。
「どうしたんだ?」
「うわっ!?」
あれから数日後である。僕が学校の屋上で寝転び、柔らかく降り注ぐ太陽光にまどろんでいると、いきなり僕に声がかかった。
「突然に登場しないでくれ、別段どうもしてない。強いて言うなら今は昼寝がしたい」
「いや、お前の心境に何か変化がある」
妙な断定口調、そしてマンガに出てくる探偵のようなポーズをキメているのは、僕の数少ない悪友の一人、澤神 喜英(さわがみ のぶひで)だ。ヤツとは小学校からの付き合いで、いわゆる腐れ縁である。
「阿呆か…。いきなり訳の分から……」
「なるほど、花穂ちゃんか。なんかあった?」
僕の言葉をさえぎって、喜英が先手を打つ。伊達に10年も一緒に遊んでいたわけでは無いらしい、完全に図星であった。
「……」
言うべきことを見失ってしまい、僕は黙り込んでしまった。
「何で分かったんだ?」
しばらくの沈黙の後、僕は喜英に質問した。僕は寝転んだまま、喜英は僕の隣りに座り込んでいる。
「お前がしょげるのは大体花穂ちゃんがらみだからな」
「しょげてなんか無いだろ」
「言葉のあやってヤツだ、お前、ここんとこちょっとおかしかったからな。兄妹喧嘩?」
「いや……」
僕は喜英の方を見ずに答えた。言葉に詰まる。
確かに、花穂の様子はここのところおかしかった。ずっと何かを考え込んでいるようだったのだ。しかも、何があったのか、といくら訊いても、笑ったような、困ったような表情で、何でもないよ、としか返答は無かったのだ。
また沈黙。非常に居心地の悪い沈黙だ。
「実はな…」
喜英が口を開いた、どことなく、ぎこちなく感じるのは気のせいだろうか?
「その…花穂ちゃんの様子がおかしいのは…多分、俺の所為だ」
「…どういうことだ?」
「あまり怒らないでくれ…いや、確かに俺の所為なんだが…」
無意識のうちにかなり言葉に怒気がこもっていたらしい、正直、自分でも驚くほどだった。
「その……な……」
喜英がこっちを見ずに答える。
「もったいぶらずに早く言え」
「花穂ちゃんに……告白したんだ」
「……は?」
その言葉を理解するのに随分と時間を要したように思う。いや、理解を拒絶したのか?だったら何故理解を拒絶した?頭の中がグルグルと回っているような感覚だ。
「説明を聞きたい」
必要ないのに。
「そのまんまだ、俺は花穂に告白した」
「どうして?」
愚問だ。
「花穂が好きだから」
「いつから?」
聞いてどうする?
「覚えてない、だけど、俺は……」
「…悪い」
謝らなければならない気がしたのだ。
「いや…でも…どうしてだろう。今更だが、俺はずっと黙ってるつもりだったんだ」
「…え?」
また「告白」である。
「こんなことしたって……無意味だと思ってたのに…」
そういった喜英の顔は、後悔の色に満ちているように見えた。…やっと喜英の様子を観察する余裕が出来たらしい。何でこんなことで僕はショックを受けているんだろうか?
ただ、自分の妹を好きになった人間が現れただけだ。そして、それがたまたま僕の親友であったのだ。誰かが誰かを好きになるのは自然なことだと思う。
「で、花穂の返事はどうだったんだ?」
「好きな人が居るそうだ」
「へぇ…」
鋭いナイフが、自分の胸に刺さったような気がした。胸の中が、冷え切ったような、底が抜けたような感覚。
「もしかしたら……」
「ん……?」
僕はこの一言がかなり引っかかった。
「俺はただの『きっかけ』なのかもな……」
「きっかけ?」
「そう、俺は脇役なんだ。主役にはなれない」
何かを悟ったような口調だった。僕はあまりこの口調が好きではない。そう簡単に物を悟ることは出来ないと思うからだ。でも、僕は物を悟ることが出来ないと悟っている。そんな自分も嫌いであった。
喜英がポツリとつぶやく。
「そろそろ…」
「なんだ?」
「自分に正直になってみたらどうだ?」
「はぁ?」
自慢ではないが、結構自分には正直だと思っている。喜英は少し考えるような仕草で、
「いや…それも正確ではないか」
「何が言いたいんだ?」
「まだ、お前は、自分の気持ちを、認めてないんだよ。心のどこかで。認めてはいけないという、防衛心みたいなものでも働いているのかな」
僕は、こういう喋り口があまり好きではない。ある物事の、全てを理解している人間に、理解していないことを、見下されているような、そんな気分なのだ。
「はっきり言ってくれないかなぁ?」
「相変わらず気が短いな…」
こういう時は、些細なことでも癇に障ってくる。
「別に怒ってないだろ」
「まぁ、それは置いておいて。お前の気持ちを、俺が当てるのは簡単だけど、それじゃあ、ダメだと思うんだ。」
語りモードに入りそうなので、なるべく話が短くなるように仕向ける。
「話は簡潔にお願いするよ」
「そうだな。俺がお前の気持ちを言い当てたとしても、それは何の解決にもならない。逆にお前たちを混乱させるだけだ、ということ」
結局、何が言いたかったのか、いまいち掴めなかった。
コイツの言葉で言ったら、掴まなかった、というところだろう。
「さて……それじゃ、俺は先に行くからな」
「はいよ……」
何か色々あって、僕の頭は多少ならずとも疲労を覚えていた。脳に情報の整理をさせるには、睡眠をとるのが確実な方法らしい。そう思ったらすぐに、僕の意識は眠りへと落ちていった…。
続く?(続くように…)